RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, pookmark
【国内】対馬藩主名の銅印 宗家文庫史料から発見〜朝鮮国王が発給か
対馬藩主名の銅印 宗家文庫史料から発見 13、14代藩主 朝鮮国王が発給か

 長崎県対馬市の県立対馬歴史民俗資料館で、朝鮮の国王が代々の対馬藩主に発給した銅印「図書(としょ)」とみられる2つの印が見つかった。同資料館は「大きさや形から、藩主の宗(そう)家に発給した図書の可能性が高い」としている。

 図書は中世以降、朝鮮の国王が貿易に携わる者に対して与えた印。江戸時代は朝鮮との外交・貿易を独占していた対馬藩が外交文書や渡航証明書に押した。

 今回見つかった2つの印には19世紀半ばの13代藩主宗義章(よしあや)(在位1839−42年)、14代藩主義和(よしより)(同42−62年)の名が刻まれている。どちらも印面が1辺約6.5センチの正方形。取っ手付きで高さは約7.5センチのピラミッド形をしている。

 旧対馬藩の藩政記録「宗家文庫史料」のうち未整理だった絵図類や調度品を調査中に真ちゅう製の容器に入った状態で見つかった。

 調査に当たった慶応大学の田代和生教授(近世日朝関係史)が図書である可能性が高いと指摘した。

 図書は藩主交代のたびに返還され、近世の図書は国内に存在しないとされていた。近世で唯一確認されている第15代藩主義達(よしあき)(同1863−71年)の図書は、韓国ソウル市の国立中央博物館に所蔵されている。

西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/132425
灯里「朝鮮から見ると対馬は外国」
藍華「という事が証明されたわけだ」
アリス「でも朝鮮人は聞く耳を持ちません」
2 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
で、あくまでも日本の地方領主だった
宋氏が儲けるためにしてた交易から
どうして、対馬=朝鮮領という話に繋がるわけ?

4 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん

   _ノ乙(、ン、)_ >>2 まだ涌いてないのに気が早すぎw

11 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>2
そんなことは誰も書いていないだろ。
韓国人がこの記事を取り上げ、対馬が韓国領土の証拠だと言いだす可能性はあるが
西日本新聞は、さすがにそこまで書いてはいない

18 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>4
>>11
すまん、某早漏をば致し候

3 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
ていうか、有名な話じゃん

7 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>3
だよね。
韓国やそれに関わってる奴てみんな痴呆症みたい。

5 名前:電動キムチ ◆QkRJTXcpFI
知らぬは朝鮮人ばかり

16 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
正式な貿易相手である証明、すなわち朝鮮が対馬を外国とみなしていた証拠だな。

33 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
これは朝鮮が対馬は外国でしたと認めていた証拠だろ!


34 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>33
普通に考えてそうだろう
外国との交易で必要だったって事だろうからな

22 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
貿易の御印だから、対馬が朝鮮と貿易をしていたしるしが新発見で国内にあったってことか。
昔から歴史で習っていた事だしそれ以上の事は書いていない。
朝鮮に返却するのが面倒になったんだな。

23 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>1
つかこれ、歴史を裏付ける貴重な資料が発見されましたってことで
普通にほのぼのニュースだよな



ぷぎゃー

↓読んだらポチッっとおながいします↓

JUGEMテーマ:歴史


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 16:51
-, -, pookmark
【日本史】戦場のラストサムライ「駆逐艦『雷』:工藤艦長」
戦場のラストサムライ「駆逐艦「雷」:工藤艦長」
No.43910 投稿者: toru626 作成日:2007-04-24 15:38:10

今晩は、はじめて、駆逐艦の投稿してみました。私は艦のついては詳しくありませんが画像、イラストを張ってありますが間違い、指摘があったら教えてください。(^^;)
大日本帝国 駆逐艦 雷

駆逐艦「雷」:(吹雪型)の23番艦(III型の3番艦)。浦賀船渠で1930年3月7日起工。1931年10月22日進水。1932年8月15日竣工。

戦歴

1941年12月4日から香港攻略戦に、1942年1月9日からはメナド攻略戦に参加。3月1日、ジャワ海で重巡洋艦「足柄」、「妙高」、「那智」、「羽黒」、駆逐艦「山風」、「江風」と共に英重巡洋艦「エクゼター」、英駆逐艦「エンカウンター」、米駆逐艦「ポープ」を撃沈し、乗組員の救助を行った。5月2日、北方部隊所属となり29日、陸奥湾川内を出港しアリューシャン作戦に参加。

10月、ラバウルに進出し25日、駆逐艦「暁」、「白露」と共にガダルカナル島ルンガ泊地の米艦を攻撃。高速掃海艇(?)「ゼーン」を損傷させ、艦隊曳船(?)「セミノール」、哨戒艇「YP-284」を沈めた。11月9日、ガダルカナル島、ヘンダーソン飛行場砲撃に向かう挺身攻撃隊に属しトラックを出港。12日から14日、ガダルカナル島沖で米艦隊と交戦(第三次ソロモン海戦)し損傷。

1943年3月22日、アッツ島への輸送作戦で重巡洋艦「那智」、「羽黒」等と輸送船2隻を護衛して幌筵を出港。27日、アッツ島沖で米艦隊と遭遇し交戦(アッツ島沖海戦)。30日、幌筵海峡で駆逐艦「若葉」と接触事故をおこし損傷。

1944年4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」の雷撃を受け沈没。6月10日除籍。

大日本帝国 駆逐艦 雷


2003年10月19日の海上自衛隊観艦式に、84歳という高齢で心臓病を患いながらも元イギリス外交官のサムエル・フォール卿が参列した。サーの称号を持つ彼にはどうしても日本を訪れたい理由があった。
 案内された艦内で、サー・フォールはしみじみと65年前の壮絶な真実を語った。それは、戦後の長きに渡り日本人の誰もが知らなかった奇跡の話だった。
 第二次世界大戦が勃発した翌年の1942年2月28日、ジャワ海スラバヤ沖で物語は始まった。当時の戦況は日本が圧倒的に優位で、イギリスを始めとする連合国艦隊は連日猛攻撃を浴び、フォール中尉の乗った駆逐艦・エンカウンターも3隻の戦闘艦に包囲されていた。
 エンカウンターは攻撃を受け、エンジンが停止し乗員達は脱出するしかなかった。3月31日午後2時、全員が救命ボートで脱出し、エンカウンターは海に沈んだ。
 だが本当の地獄はここからだった。船から流出した重油で多くの者は目が見えなくなった。近くには沈没した他の船の乗組員を含め400名以上が漂流していた。

イギリス 駆逐艦エンカウンター 乗組員8隻の救命ボートでは不十分で、漂流しながらしがみつくのがやっとだった。しかしフォール中尉は、沈没する前に打ったSOSの信号を受信できる距離に味方のオランダ軍基地があったため、すぐに救助が来ると思っていた。
 しかしいつまでたっても救助は来なかった。怪我をした足を魚につつかれ、不安の中でサメに襲われたとパニックに陥る者達も多かった。諦めそうになる者も多かったが、フォール中尉は「家族を思い出せ、生きて故郷に帰ろう」と励まし、自分にも言い聞かせた。
 漂流から20時間が経ち、絶望感から自殺しようとする者も現れた。その時、フォール中尉達の前に船の姿が見えた。しかしそれは日本海軍の駆逐艦「雷(いかずち)」だった。
 乗組員220人の小型の軍艦ではあるが、数日前の海戦では連合国軍の船3隻を撃沈するなど、その威力を見せつけていた。
 指揮をするのは艦長・工藤俊作少佐。身長185cm、体重90kgの堂々たる体格の孟将だった。

大日本帝国 駆逐艦 雷 艦長工藤俊作少佐 雷の乗組員が、多数の浮遊物に気づいた。工藤少佐は、潜水艦の潜望鏡が見えないかどうか確認するよう、航海長の谷川清澄中尉に指示した。この2ヶ月前にアメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受けていた上、前日には日本の輸送船が敵の潜水艦に撃沈されたばかりだった。
 油断できない海域だったため、戦闘用意が指示された。しかし浮遊物が敵のイギリス兵らしく、400名以上いることも伝えられた。だが念のため潜望鏡がないかさらに確認するように指示が出た。
 戦場に情けは無用。事実、前年には日本の病院船の救命ボートが攻撃され、158名が死亡するという悲惨な出来事も起こっていた。
 工藤の船は漂流者を射程距離に捕らえた。この時工藤が見たのは、ボートや瓦礫に捕まり、必死に助けを求めるイギリス兵たちの姿だった。いつ潜水艦に襲われるかわからない危険海域で、艦長に全ては委ねられていた。
 フォール中尉たちが最期の瞬間を覚悟した時だった。工藤艦長は、敵兵を救助するよう指示を出した。駆逐艦には、救難活動中を示す国際信号旗が掲げられた。

大日本帝国駆逐艦雷に救助される英駆逐艦エンカウンターの乗組員 兵士達は、自分たちより数の多いイギリス兵を助けることに戸惑った。しかし、海軍兵学校の頃から教育されてきた武士道、それが工藤にこの行動を取らせた。敵とて人間、弱っている人間を相手にフェアな戦いはできないのだ。兵士達もこの考えに従うことになった。
 世紀の救出劇が始まった。まずは自力で上がれる者に縄梯子などを差し出したが、イギリス兵たちは病人たちを先に救助するよう求めた。日本兵達は病人達を担いで雷に引き上げた。
 また、イギリス兵達は最後の力を振り絞って雷に向かって泳いだ。だが、21時間の過酷な漂流ですでに限界を超えていた。自力で上がれる者がほとんどおらず、救助の手はとても足りなかった。すると工藤は、一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意を命じた。最低限の人間を残し、全員で救助活動に当たることになったのだ。ここで兵士達は覚悟を決めた。ただ工藤は220名の命を預かる艦長として気を緩めることはなかった。
 イギリス兵たちの救助は続いた。だが体力の限界を迎えていた彼らは自力でロープも棒も掴むことができなくなっている者もいた。そんな彼らを、日本兵達は海に飛び込んで抱えて救助した。

救助されたエンカウンターの乗組員 敵も味方もなかった。救助活動を見ていた工藤は、魚雷搭載用のクレーンでも何でも、使えるものは何でも使って救助するように指示した。甲板では日本兵がイギリス兵達の汚れた体を優しく拭き、自分達にとっても貴重だった真水や食料を惜しみなく与えた。
 やることはやったと思っていた兵士達だったが、工藤はさらに他の漂流者を残らず救助するように指示した。遠方に一人でもいたら船を停止し救助した。全員を救助し終った時、その数は日本の乗組員の倍近い422名にのぼった。
 サー・フォールは、全員を救おうとした工藤艦長のフェアな態度こそ、日本の誇り高き武士道なのだろうと感じたという。
 救助活動が終ると、工藤は士官のみを集合させた。そして「諸官は勇敢に戦われた。諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と英語で伝えたのだ。
 名誉ある442名は翌日、ボルネオ島の港で日本の管轄下にある病院船に捕虜として引き渡された。

サー・フォールの自叙伝 終戦後、サー・フォールは家族と恋人の待つ祖国イギリスに帰国し、サーの称号を与えられるほど有能な外交官として勤め上げた。
 1996年、彼は自らの人生を「マイ・ラッキー・ライフ」という自伝にまとめた。その冒頭には「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた工藤俊作に捧げる」と書かれている。
 サー・フォールは自分が死ぬ前に工藤艦長に会いたくて日本を訪れた。しかしその時、工藤の消息は掴めなかった。
 実は工藤が別の船の艦長になった1942年、雷は撃沈され乗組員全員が死亡した。工藤はそのショックからか戦後は戦友と一切連絡を取らず、親戚の勤める病院を手伝いながらひっそりと暮らした。そして昭和54年1月4日、77歳でこの世を去った。
 自らのことを工藤は語らなかったため、サー・フォールが来日しなければ誰にも知られることはなかった話。
 この救助劇はサー・フォールの話に感動した元自衛官の手により「敵兵を救助せよ」(惠隆之介・著/草思社・刊)にまとめられた。

サー・フォール 惠氏は工藤元艦長の家族にも取材をしたが、誰もこの話を知る人がいなかったという。戦争で部下達を失った悲しみが、彼の口を閉ざしたのだろうと感じたという。
 さらに救助活動に加わった元航海長の谷川氏は、当たり前のことをしただけだと工藤元艦長なら言うだろう、と話す。
 サー・フォールの日本人に抱く印象に影響を与えた彼の武士道。尊敬と感謝の念を今も抱いている、とサー・フォールは話してくれた。工藤元艦長の残した真の武士道の姿は、今も多くの人の心に生き続けている。
 工藤は自らのことを何も語らずに亡くなったが、生前、一度だけイギリス兵について話したことがあるという。彼がいつも持っている黒いバッグがボロボロだったため、姪が「なぜ新しいのに替えないの?」と聞いたところ、「イギリス兵にもらった大切なバッグなんだ」と語ったという。
 サー・フォールは敵を敬う武士道を、子供や孫達にも話したという。いつか世界中の人たちが仲良くなれるきっかけになることを祈って。



大日本帝国 駆逐艦 雷



enjoy korea(リンク切れ)
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pmilitary&nid=50816

▽関連動画




▽関連記事
【日本史】神風特別攻撃隊
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7247
【日本史】海外から見た日本(動画)
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=6304
【歴史】海外に残る大日本帝国の美しい歴史遺産
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=6111
【歴史】日本とインドネシア
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5850
【日本史】フィリピン少年が見たカミカゼ
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5782
【歴史】日本を評価する外国
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5717
【日本史】第二次世界大戦時の日本(オールカラー)
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5221
【日本史】世界に影響を与え続ける日本
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5167
【日本史】台湾を東京以上にした日本人
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=4704
【動画】日本の戦争(カラー)
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=4258
【日本史】エルトゥールル号遭難事件
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=3986
【日本史】「戦争がなかったら、私は今でも陛下の臣下です」サイパン人の言葉
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=3553
【日本史】真実のノモンハン
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=3074
【台湾】高砂義勇兵
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2802
【国内】ドイツ生まれの靖国ばあさん
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2449
【米国】アメリカ海軍人アーレイ・アルバート・バーク 無秩序で発言の万分の一も実行しない韓国海軍
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2241
【国内】外国人が見た日本の戦い
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2005
【日本】支那の国宝を守った日本軍
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1498
蘆溝橋事件 その1
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=179
蘆溝橋事件 その2
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=330
南京事件
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=8035
高砂義勇兵
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7817
南京攻略戦
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7557
【パラオ】 (前編)
httphttp://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7478
【パラオ】(中編)
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7478
【パラオ】(後編)
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7478
盗まれた楽園〜ハワイ
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7385
長崎事件
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=3860

大日本帝国 駆逐艦 雷 艦長工藤俊作少佐

↓読んだらポチッっとおながいします↓

JUGEMテーマ:歴史


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 22:27
-, -, pookmark
【日本史】高麗史を読む
【神風なしでも】高麗史を読む【超楽勝】

筥崎宮

高麗史

『高麗史 列伝巻十七 金方慶伝』を読む

このスレは、高麗史の記述を元にお送りします。

 
 金方慶さん、danbokkと同じ安東金さんです。この時点でろくなもんじゃありませんw。その祖先は新羅敬順王の遠孫であるらしい。ホントかどうかしらんけど。
 
1 頭角を現す金方慶
  金方慶さん、モンゴルの手先になって済州島のゲリラ討伐なんかもやっちゃいます。このゲリラ討伐で出世していますね。もちろん、三別抄狩りです。誇らしい三別抄、高麗史では「賊」です。韓国人はモンゴルに抵抗した三別抄と高麗の日本侵攻の双方を同時に誇りますが、三別抄を誇るなら、日本を攻撃した高麗はモンゴルの奴隷、日本を攻撃した高麗を誇るなら、三別抄は糞ゲリラです。僕はどっちでもいいよ。
<#`д´>かんしゃくが裂けますね!高麗は40年モンゴルに抵抗したの!
( ´H`)y-~~してません。三別抄はモンゴルじゃなくて高麗軍と戦ってます。

元寇


2 文永の役(第一次侵攻作戦)
元寇


  
この後、モンゴル皇帝フビライが高麗に日本侵攻のために船を造れと命令(命令ですよ、命令。)しますが、費用も資材もなく、工期にも間に合いそうになく、国家の大問題となります。それもこれも、人質だったころの忠烈王が、自分が帰国したい一心でモンゴル人のコスプレまでして「私を帰国させてくれたら日本に聖なるモンゴルの偉さを教えてあげます〜帰国させてください〜頼みです〜」と媚びたツケが回ってきたものです。
そんなこんなで、工費も工期も資材も半端な900隻のボロ船艦隊が完成しました。乗り込んだのは蒙漢軍(ほとんど中国北部の中国人でモンゴル人はほとんどいない)25000名、高麗軍8000名、水夫6700名(船大工をそのまま水夫として徴用)、合計約40000名の安っぽい侵攻部隊のできあがりです。
ボロ船艦隊は合浦を出航し、対馬・壱岐を襲撃します。壱岐・対馬では数にものを言わせて占領しますが、日本本土に到着すると状況は一変します。武士ツヨス。高麗軍は必死に奮戦して、夕方には戦闘が一段落します。というか、高麗軍は割とボロボロです。(参考:元史では「盡矢(矢が尽きた)」と表現されている。)
そこで作戦会議です。金方慶は総司令官の忽敦と隣接部隊の司令官である洪茶丘に「我が軍は劣勢とはいえ、敵の領土に入ることが出来たのだから、戦うべきです。船を焼き払い、背水の陣をしいて、もう一度戦いましょう。」と口先だけで勇ましいことを言います。総司令官の忽敦は「あのねえ、孫子が〈小敵の堅、大敵の擒〉って言うようにね、味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)をかきあつめて、どんどん増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)と戦っても勝てるわけがないでしょ。退却するしかないよね。」と金方慶の無謀な案を一撃で却下します。
もう一人の指揮官、復亨はその日の戦いで矢に当たって重傷を負い、既に船に逃げ帰っていたので作戦会議には出席していないです〜。こうして「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定したわけでございます。橋頭堡も確保できずに上陸作戦失敗。この時点で、元・高麗軍の敗北決定。敗戦。日本軍の勝利確定。
そうして船に逃げ込んだ日の夜、折からの暴風雨でボロ船艦隊は粉々になります。暴風雨に遭った時点で、既に戦争に負けて逃げ帰る途中だったのだね。
 
3 その後の金方慶
 後に金方慶、元寇の敗因を上げて「船大工を水夫として使ったら戦闘では全然役に立たなかった」なんて当たり前の事を言っております。アホです。そんなこんなで、金方慶、疑獄事件に巻き込まれ、針金を首に結びつけられて引き回され、鞭で頭を殴られたりします。朝鮮半島に息づく伝統文化、密告による謀叛・横領の疑いです。金方慶とその一族は奴隷にされて(方慶及子壻家属悉送京師以為奴隷)その禄は兵糧に転用されます。楽しい人生です。残念なことに後にこの疑いは晴れてしまいます。w
<#`д´>私は悪くなくて!船大工がうっかり者なの!まことに息苦しいですね!
 
元寇


4 弘安の役(第二次侵攻作戦)
元寇


 そんなわけで、復権した金方慶に第2回目の日本侵攻作戦の命令が下ります。もちろん、モンゴルの皇帝からです。この時点で金方慶、けっこう年です。はっきり言ってジジイ。こんどの指揮下部隊は正規軍10000と水夫15000、日本侵攻を頑張れと言うことで、フビライから金方慶に中善大夫管領高麗国都元帥の称号と四品の官位を与えられ、宴席で白いご飯と魚の汁を下賜されます。華麗な高麗の食生活が偲ばれますね。元帥閣下一世一代の食事が「白飯と魚の汁」ふだん何食っていたのでしょうね?
 そんなこんなでついに出撃です。康安四年六月、金方慶以下25000の高麗軍を主力にする45000名の東路軍は九州沿岸に殺到します。金方慶、周鼎球、朴之亮、荊萬戸(萬戸は軍の階級)らが日本兵を300名ほど討ち取って調子に乗っていると、日本軍の突進を受けて高麗軍の戦線があっさり崩壊。指揮官の茶丘は敵前逃亡開始。日本軍はこれを追撃しまくります。ギリギリのところで王萬戸の部隊が日本軍を横から攻撃してくい止めたので、茶丘は九死に一生を得たわけですね。高麗軍、翌日もしっかり負けました(原文:翼日復戦敗績)。その後も高麗軍は戦うたびに負け続けです(原文:累戦不利)
元寇

 この頃、高麗軍に伝染病が流行し、戦わずに3000人が死にます。(参考:なぜ伝染病が流行するのでしょう?そうです。この時点でもう二ヶ月も上陸作戦が成功していないので、食料は欠乏し、船の中の衛生状態は最悪だったということが考えられますね。高麗史によれば、この頃に高麗本土で天然痘と思われる疫病が流行してますので、天然痘かもしれないです。)
 まあ、こんな有様なので、忻都(総司令官)と茶丘(死に損ないの高麗人指揮官)たち高級指揮官が雁首揃えて「連戦連敗だし、范文虎の江南軍も来ないし、退却したほうがいいんちゃうか」という議題で作戦会議。結論は「フビライ様のご命令で江南軍と合流しなくちゃいけないから壱岐で待つニダ。南宋軍が来ないし、我が軍は先に到着してもう何度も戦ったので、船は腐っているし、食料もない、もうだめぽ。」ということで、この時点で高麗軍の敗北決定。作戦会議の決定の内容は、実に属国らしい、宗主国の命令が国民の生命を上回る結論で終了。ここで帰れば良かったのにw
ここまで黙っていた金方慶は「フビライ様のご命令(原文:聖旨)を奉って、食料は三ヶ月分持ってきているので、あと一ヶ月は持ちこたえられる。南宋軍と合流すれば、必ず勝てます!」などと、またまた口先だけで大きな事を言い出します。でも、この時点で高麗軍に自力で戦う力は残っておりませんでした。(大笑い
 さて、やってきました南宋軍、9000隻の大艦隊。飢えと疫病に苦しむ高麗の敗残兵は、やっとの事で援軍との合流には成功しますが、上陸作戦は全然成功しないまま台風シーズン到来。南宋軍・東路軍ともに潰滅。終了。
ちなみに、高麗史金方慶伝では、南宋軍は「蛮軍」ですよ、「蛮軍」。かつての高麗の宗主国、高麗が死ぬほど事大した南宋が「蛮族」呼ばわりです。まったく激しい属国根性ですね。(苦笑
 
5 金方慶の最期
  89才まで無駄な余生を送って死んでます。
 
<#`д´> 要点は何なの!要点は何なの!
A 文永の役(第1次侵攻):退却を決定して逃げている最中に遭難
B 弘安の役(第2次侵攻):6月上旬から約3ヶ月上陸を阻止され漂流、ついに遭難


 というわけで、韓国人は「元寇は台風おかげさまで失敗しましたね。キルキルキル」とか言ってますが、高麗軍は台風に関係なく、2回ともごく普通に負けております。宜しいでしょうか?自国の歴史書の内容くらい良く覚えておいてくださいね。
( ´H`)y-~~

 
そこで一曲「高麗船」
 
波の間に高麗人が
やたらたくさん溺れてる
高麗船は親父の形見
型は古いし時化にも弱い
俺とアニキのよ
夢の棺桶さ


たった一人のフビライさんに
楽な暮らしをさせたくて
高麗船は嵐の海で
なにもしないでそのまま沈む
熱い火_病じゃよ

水に浮かないぜ


enjoy korea
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1832978

▽関連記事
■倭人にして本国(高麗)人であるらしい、倭寇の出現地域
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=996
【歴史】タイガー先生の歴史談義 『倭寇(1)』
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2892
【朝鮮民族の来襲と脅威】 元寇以前の防衛戦争(新羅・高麗・南蛮・刀伊など)
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1164
日本における元寇の評価に関する私見
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1336



↓読んだらぽちっとおながいします↓

JUGEMテーマ:歴史


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 22:40
-, -, pookmark
【日本史】1945年8月15日以後 台湾と朝鮮で起きたこと。
◆1945年8月15日以後 台湾と朝鮮で起きたこと。 体験した2人の大学教授から直接私が聞いた話。 【実話だと思う】

台湾

その教授は台湾の旧制中学校に通う中学生でした。

1945年8月15日。

 

日本は第二次世界大戦に敗れました。

翌日、その中学校(今の高等学校)の先生は

「日本が負けたのは科学でアメリカに劣っていたからだ。

君たちはアメリカに負けない学問を身に付けろ」

 

それから日本引き揚げの翌年3月までのわずか7カ月で

旧制中学課程4年間の勉強すべてを教えたそうです。

教える方も、それを学ぶ方もすごかったと思います。

 

その生徒はそれから東京大学に進み、

民間企業を経て、超有名私立大学の教授になりました。

「sakuraさん、人間、必死になればなんでもできますよ」

と教えてもらいました。

 

 

 

 

朝鮮

その教授は、朝鮮北部の小学生でした。

1945年8月15日。

 

半島で暮らしていた日本人の総引き揚げが始まります。

日本人が集団で半島南部の釜山を目指しました。

引き揚げる過程で造線人の略奪が始まります。

 

「日本人を狙った造線人が村ごとに立っているのです。

腕時計などの財産を渡さないと通してくれません。

ある日本人家族は最後には何もなくなりました。

 

その時、

造線人の男はその日本人の娘さんを指差すのです。

そのお父さんは苦しかったでしょう。

でも、造線人は武器を持って通すことを許さないのです。

お父さんは泣く泣く、娘さんを造線人に渡しました。

その娘さんは弄ばれた上で殺されたのでしょうねえ」

 

自宅で、悲しそうにその話をしてくれた先生は

某国立大学教授で、その分野では超有名な碩学です。

 

 

 

 

私は二人の先生からじかに聞いたこの話を忘れません。

 



enjoy korea
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&nid=2731288(リンク切れ)


↓読んだらポチッっとおながいします↓

JUGEMテーマ:歴史


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 23:53
-, -, pookmark
【日韓】韓国の木簡に「ナニワ」さん 7世紀、日本人の名前か
韓国の木簡に「ナニワ」さん 7世紀、日本人の名前か

 韓国・扶余(プヨ)で発見された木簡に日本人とみられる名前が記されていることが、日韓の専門家の研究で明らかになった。扶余は朝鮮古代の百済の都で、木簡は7世紀のものらしい。「ナ尓波連公(なにわのむらじきみ)」(ナは那の異体字)と5文字あり、「難波」と記されるようになる大阪湾周辺に住んでいた有力者の可能性が高いとみられる。百済は飛鳥時代に日本と緊密な関係にあったが、日本人の名前が出土史料で確認されるのは初めて。

 韓国国立扶余博物館が昨年、収蔵する木簡を整理。その際、「連」が身分を示す日本古代の姓(かばね)であることに学芸員の李鎔賢(イ・ヨンヒョン)さんが気づき、日韓の専門家が解読した。

 木簡は長さ20.9センチ、幅1.9センチ。10年ほど前の発掘調査で出土した。形から荷物を送る時の荷札と見られる。(渡辺延志)

 鈴木靖民・国学院大教授(古代史)の話 「ナニワ」という日本人の名前とみていいだろう。渡来系の難波氏が外交や交易にかかわった、との記録が日本書紀にある。使節として百済に派遣された時に持参した土産に付けたか、逆に百済から贈られた品に付いていた木簡といった可能性が考えられる。

韓国 扶余で発見された木簡

韓国 扶余

asahi.com(日本語)
http://www.asahi.com/culture/update/0707/TKY200907060427.html

灯里「日本の朝鮮半島支配の痕跡がまた一つ・・・」
藍華「【緊密な関係】かぁ。百済の王子を人質に差し出したりするのも確かに緊密な関係っちゃ緊密な関係よねぇ」
アリス「アカヒ新聞はどこに遠慮して遠まわしな表現にしてるんでしょう?」

11 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
そういや百済の木簡に倭の記録が残ってるとか聞いたことがない、断片的な情報からいろいろ変な説を出しそうなのに不思議だな。

12 名前:スケチン大佐 ◆KGB./87bn.
そりゃ百済は日本の統治下にあったんだから政治顧問や軍事顧問はいただろう?w

13 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>1
これで朝鮮南西部が古代においても日本の植民地だったと確定したな。

17 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
この事実をなんとか自分達に都合よく解釈しようとしているんだろうな
朝鮮人w

21 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
こういう場合は「単なる交易ニダ」で終わります。
逆の場合は「ウリナラの影響力が及んだ証拠ニダ」になりますが。

ご都合主義なのでどーでもいいです。

25 名前:スケチン大佐 ◆KGB./87bn.
しかし・・・出土したの「連」クラスの人間の名前だろ?
政府高官じゃん。

「ナニワさん」と書くことによって印象操作してるな?(-@∀@) ←こいつw

34 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
こんなの出ちゃうと、また韓国の国定教科書が嘘だってバレるのでは。
朝鮮南部は倭人が支配していたってのは、事実だからしょうがないけど。


41 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>34
いや、古代日本の半島に対する支配や、影響力(軍事+文化)については、
日本の教科書もタブーらしく、いっさい触れていないよ。
だから、(さんざん既出だけど)なぜ白村江の戦が起きたのか、その因果関係が、
教科書の文面からはたどれない。

さらに、韓国の馬鹿学者が思いつきで変な論を進め、文化国家の百済が、
後進国日本の軍事力を利用していたと言い出し、それに日本のエセ学者が
同調、そしてNHKが電波で垂れ流し、という酷い状況になっている。
この東亜版でも、去年、生半可に歴史を齧ってる在日が来て、この論に固執していた。

昔も今も、軍事力と文化は両輪であり、文化だけ高くて軍事的に弱い、とかいう
国は存在しないんだけどね。
だって、文化の花は、技術力と経済力の上に開くものだから。

43 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>荷物を送る時の荷札

つまり、百済の扶余から「ナ尓波連公(なにわのむらじきみ)」様へ贈り物ですね。
統治機関である任那倭府(日本府)の半島支配を補強証明するものですね。



44 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
《天武天皇十年(六八一)正月丁丑【七】》◆丁丑。天皇御向小殿而宴之。是日。親王。諸王引入内安殿。諸臣皆侍于外安殿。共置酒以賜楽。則大山上草香部吉士大形授小錦下位。仍賜姓曰難波連。

日本書紀のこの記述にある人物かな。

46 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>44
よくそんなんがひょいと出せるな・・・

55 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>44の変態ぶりに嫉妬・・・
なんでそんなのが簡単に出てくる・・・
韓国だったら教授クラスでも出せないぞ

56 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>55
比較対象が間違ってるw
あいつらは妄想しかできない。

13 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>1
これで朝鮮南西部が古代においても日本の植民地だったと確定したな。

84 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>>13
植民地ではなく領土の一部だったんですよ、長白山を境目として半島側は我々大和民族の祖先が
暮らしていた訳ですが後年大陸側の蛮族に押し出され、現在の日本列島のみが長い間我々大和民族の
死守すべき土地となった訳です
現在の朝鮮人は蛮族の中でも劣等な民族が半島に閉じ込められ、その中で生き残った連中が小中華として
煮詰まったものです
そして近代になって領土回復をはたしたのが日韓併合と呼ばれる条約の実態です、本来朝鮮人というのは
大陸民族の一部族だったので領土回復と同時に半島から大陸内に移住させるべきでしたが、やはり日本人は
お人好しすぎましたね
あの時キチンと清算しておけば現在の諸問題の一部はなかったかも?と思うと残念です



いけない妄想 ダメ絶対!!

↓読んだらポチッっとおながいします↓

JUGEMテーマ:歴史


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 14:36
-, -, pookmark
【日台】日本への愛憎『台湾人生』〜5人の「日本語世代」ドキュメンタリー 
胸が痛い日本への愛憎 『台湾人生』

 台湾が日本統治下だった時代に青春期を過ごした、5人の「日本語世代」の今を追うドキュメンタリー。彼らの口から語られる、日本に対する愛憎に胸が痛い。

 貧しさから中学退学を考えていたという宋定國さんは、5円札をくれた日本人教師が今も忘れられないという。その一方で、ビルマ戦線で戦った台湾人日本兵・蕭錦文さんのように「私たちは日本に捨てられた」と抑えきれぬ感情を吐露する人もいる。

 旧日本国籍者に対する戦後補償は今も両国にまたがる問題だ。酒井監督は「日本語世代の存在は、台湾だけでなく日本の歴史の一部として記憶されるべき」とカメラを回したという。

 筆者も取材で台湾を訪れた時、中年男性に日本について尋ねてみたことがある。彼は幼少期、両親が日本語を話していたこともあり親しみがあるが、統治下時代の話はあまり聞かされてないという。日本語世代が高齢となった今、これは台湾にとっても貴重な記録となりそうだ。★★★★★(中山治美・筆)

 【データ】
監督:酒井充子
撮影:松根広隆
音楽:廣木光一
6月27日(土)より全国順次公開
(共同通信)

琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-146252-storytopic-137.html



▽関連サイト
台湾人生 公式サイト
http://www.taiwan-jinsei.com/
上映映画館
http://www.taiwan-jinsei.com/theater.html

▽関連記事
【日本史】台湾はなぜ親日的なのか
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7414
【台湾】忘れ去れた台湾史 日本時代編 第一回
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5716
高砂義勇兵
http://ameblo.jp/maokapostamt/entry-10015161800.html
【台湾】高砂義勇兵
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2802
【日台】明治政府初の海外出兵『牡丹社事件』伝承する記念式典開催
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7491
【日本史】台湾を東京以上にした日本人
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=4704
【台湾】いまなお慕われている日本人教師
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1607
日本と台灣 極東の民主国家
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1439
台湾・基隆 大日本帝国が整備した港湾
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1389
【台湾】「台湾紅茶の父」 日本人胸像除幕
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5347
「台湾蓬莱米の父」と呼ばれた日本人、磯永吉の手稿が発見される
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=223
【台湾】頭城鎮にある日本統治時代に亡くなった旧日本軍の「忠魂碑」、「子孫を台湾に招きたい」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2861
【台湾】元日本人からの手紙〜「日本人らしく胸を張り、立ち上がってほしい」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=529
【台湾】天皇陛下にも献上されたという「天皇米」こと「吉野一号」の復活を目指す動き
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=319
【台湾】頭城鎮にある日本統治時代に亡くなった旧日本軍の「忠魂碑」、「子孫を台湾に招きたい」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2861
【台湾】明石総督をしのび墓参 台北市郊外
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2541
【台湾】花蓮女中80周年記念に日本の卒業生も来台
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1808
【台湾】台湾有情 廟に響く君が代
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1795
【台湾】「日本人よ胸を張れ!」…“老台北”蔡焜燦氏、日本への思いを語る
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1619
60年目の2・28事件=台湾
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1300
「これが植民地の学校か」“老台北”蔡氏が戦前台湾の「綜合教育読本」復刻出版
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1152
【台湾有情】総統府に日本人の軌跡
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=862
日本軍人の霊を祭る廟
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=851
【国内】台湾少年工の大和魂
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5976
【国内】映画「緑の海平線〜台湾少年工の物語」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5399
高座海軍工廠と台湾少年工
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=582
戦前の日本映画 台湾で大量発見 ネット公開中、お宝映像も?
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=175
【台湾】日本統治時代の治水技術の応用で海岸の緑化に成功
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7696
【台湾】台湾日本統治時代の『花車』公開 天皇、総督用の客車
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7627
2010年、戦前の「御料車」のコピーが、一般開放されます
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=6389
【台湾】八田技師の記念館「官田慈聖宮」に完成
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=7035
【国内】八田與一技師の偉業を描いたアニメ映画が再度東京で試写上映
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=6269
【国内】八田與一氏の偉業を描いた演劇上演へ
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2105
【台湾】八田技師思い「日台の懸け橋に」 友好の会が台北の児童と交流
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1798
【台湾】八田技師夫妻を偲び墓前祭に250人が参列
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1786
【国内】 八田技師、アニメ映画に 虫プロ製作、来年夏劇場公開
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1651
戦前台湾で巨大かんがい施設 故八田技師 石碑建立へ 今秋、金沢の生家前に
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=6312
八田與一を偲び、日台150人が烏山頭に集う
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=992
【台湾】高砂義勇兵の記念碑、再建へ
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2617
「高砂義勇兵」記念碑移転〜解決の目処たたず
http://ameblo.jp/maokapostamt/entry-10013264106.html
高砂義勇兵Flash
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=957
「高砂義勇兵」碑は存続 台湾が妥協案、残る8基は撤去
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=91

日台友好

↓読んだらぽちっとおながいします↓

JUGEMテーマ:ニュース


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 23:27
-, -, pookmark
【日本史】沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事
沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事

 第2次大戦末期の沖縄戦で守備隊長が住民に自決を強いたとされる「沖縄集団自決」について「軍命による自決ではなく、切羽詰まった住民が自殺した悲惨な事件だった」とする特集記事が沖縄県浦添市文化協会発刊の「うらそえ文藝」第14号に掲載され、波紋を広げている。特集には、自決現場を目撃した当時の米軍の報告書や住民の証言などが収録され、問題の発端となった地元紙、沖縄タイムス発刊の「鉄の暴風」こそが訂正すべきと結論づけている。

 「鉄の暴風」で自決を強いたと名指しされた守備隊長や遺族らは、この記述を元に書かれた大江健三郎氏の「沖縄ノート」に対し出版差し止めなどを求めているが、昨年秋の2審判決では訴えが退けられ、現在、最高裁で争われている。

 この特集記事を書いたのは同誌編集長で沖縄県文化協会長の星雅彦氏と沖縄戦ドキュメンタリー作家として知られる上原正稔氏の2人。

 上原氏は長く「鉄の暴風」を疑ったことがなく、現地調査した作家の曽野綾子氏が1973年に「ある神話の背景」で疑問を呈したさいも、軍命による集団自決を事実として信じて疑わなかった。ところが、沖縄タイムスや琉球新報などで沖縄戦に関連した連載記事を書くうちに、新たな住民の証言や米軍の報告書などを入手、「(『鉄の暴風』は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」という。

 上原氏によると、こうした結論を2年前に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明している。

 また、星氏も沖縄県史編纂(へんさん)で40年ほど前に、集団自決事件の起きた渡嘉敷島を訪問した際、住民の話から軍命の存在に疑問を抱いたが、「鉄の暴風」が沖縄県民の間で定着し、疑問を差し挟めない状況だった。しかし、「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と、話している。

 富田詢一・琉球新報社編集局長の話「上原氏への圧力はありません」

http://sankei.jp.msn.com/life/education/090610/edc0906102117005-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/education/090610/edc0906102117005-n2.htm

▽関連
新証言 集団自決はなかった

▽関連記事
【歴史】日本人虐殺事件を引き起こした朝鮮人大尉
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5078

灯里「何が何でも日本軍を悪者にしないといけないんですね」
藍華「遺族年金の問題もあるからややこしくなるのよ。真実を暴くべきマスゴミは日本軍悪しでダンマリだし」
アリス「そもそも米軍が民間人や捕虜を虐殺した事が自決の直接的要因です」
晃「病院船は撃沈されるし、病院は爆撃されるし、都市は焼き払われるしな。支那人には及ばないが、リンドバーグも絶句するぐらい当時の米兵は残虐だったらしい」
アリシア「だからこそ命令が無くても自決する事も当然選択肢にあるわよね」

捕虜を取らない、とは

ニューギニア戦線でのオーストラリア軍やマッカサー指揮下の第41師団は、「捕虜を取らない」つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵を殺するので有名だった。

軍事歴史家デニス・ウォーナーは1982年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。

そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。

「 しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。

「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)は答えた。「捕虜はいらない。全員射殺してしまえ」そして彼等は撃たれた。

日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送(東京ローズ)では、第41師団のことを「屠殺者、Slaughterer」と呼んでいた。

終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、第41師団、捕虜を取らずという堂々たる見出しが付けられていた。

この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。

『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』 カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著



沖縄海上特攻に参加した兵士の末路

「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立った米軍戦闘機の群が執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した」
巡洋艦『矢矧』の原艦長の証言

「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた
『大和と運命を共にした第2艦隊司令長官』 伊藤整一著





↓読んだらぽちっとおながいします↓

JUGEMテーマ:ニュース


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 22:47
-, -, pookmark
【国内】最古級の新羅写経に角筆の文字〜新羅語が片仮名に影響か
【歴史】 最古級の新羅写経、東大寺「大方広仏華厳経」に角筆の文字〜新羅語が片仮名に影響か[06/12]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1244879360/

1 名前:蚯蚓φ ★[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 16:49:20 ID:???

 奈良・東大寺所蔵の経典に、新羅語の文字や抑揚を表す符号「梵唄譜(ぼんばいふ)」(節博士)が角筆(かくひつ)で多数書かれているのが見つかり、最古級の8世紀の新羅写経とわかった。小林芳規・広島大学名誉教授(国語学)が同寺図書館発行の「南都仏教」第91号に発表した。奈良時代に朝鮮半島の仏教文化が色濃く影響していたことを示す貴重な発見だ。  (編集委員 柳林修)

 角筆は、木や竹などの先をとがらせた筆記具。墨を付けずに紙をへこませて書く。判読が難しく、1961年に小林氏が世界で初めて古文書にその痕跡を発見。今では全国で約3500点、中国や韓国などでも見つかっている。

 今回、「新訳華厳経」80巻のうち、巻12〜20を1巻にした「大方広仏華厳経」(8世紀)を、斜光を当てて調査。角筆で書かれた文字や梵唄譜を多数確認した。たとえば、「是法」の間に書かれた「●(記者注:「叱」のくちへん部分が0のような楕円)」は「叱」の草書で日本語の「ノ」に、「尓(その)時」の右下の「●(記者注:「ら」のような文字)」は「良」の草書で「ニ」に、それぞれ相当する新羅語の助詞で、漢文を新羅語で訓読するための仮名だった。

 また、「利」を略したとみられる角筆独特の新羅語の文字「リ」もあった。日本の片仮名「リ」に似ており、平安時代初期(9世紀)に漢字を略して生まれたとされる片仮名が、実は新羅語の影響で出来た可能性も指摘されている。

 角筆や紙質、合巻経の様式などから、この華厳経は同寺では初の新羅写経と判断された。新羅写経の使用目的について、小林氏は「勘経(かんぎょう)」を挙げる。勘経は写経を確かなものにする照合作業で、その際に原本に近く信頼性の高い新羅写経が使われたとみる。

 新羅写経の存在は、東大寺に新羅語のわかる僧侶がいたことを示し、その国際性を物語る。現に、752年の大仏開眼会ではインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼導師を勤めた。小林氏や韓国の学者は今年8月から共同研究を行い、全容を解明する。

 近年、京都・大谷大所蔵の経典「判比量論(はんひりょうろん)」(8世紀、国重文)でも同様の書き入れが見つかり、新羅写経と判明した。しかし、110行の経典で書き入れはわずか。今回の経典は1141行もあり、多数の書き入れの発見が見込まれることから、新羅語研究の進展に大きく寄与することは確かだ。

 今回の華厳経と同一セットとされる正倉院宝物の華厳経を、紙質や書式などから新羅写経と指摘する山本信吉・元奈良国立博物館長(文献史学)は、こう指摘する。「中国・唐との交流が主流の奈良時代に、朝鮮半島の仏教文化の影響が底流にあったことを確かな証拠で示した。朝鮮半島の影響をもっと考えるべきだ

 東大寺は奈良仏教の中心をなしていた。それだけに今回の発見は古代仏教史はもちろん、国語学や朝鮮古代史をも解明する重要な手がかりになりそうだ。

ソース:読売新聞朝刊6月12日版
<8世紀 最古級の新羅写経/東大寺所蔵の「大方広仏華厳経」>ネット上になし。
手入力:http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1244703673/73-74

灯里「また朝鮮半島との関係ですか・・・いい加減にしてください」
藍華「一字一句まで読み解く気はしないけど、とりあえずこっちみんな」
アリス「『リ』に似た言葉ぐらいどこにもありそうですが」

2 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
アホだな

3 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
また、はじまった

もう飽きたから別のパターンを考えてくれ

4 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
たった一文字「リ」が似てれば起源主張か。
馬鹿め。

5 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
チョンコロは死ねよ

6 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
新羅語が現存してない罠

7 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
カタカナって漢字から生まれたんじゃないの?

8 名前:七海
はいはい、後進国が先進国日本に影響を与えたと言いたいのね

ホルホルしとけ

9 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
片仮名の由来なんて議論の余地なく漢字だろ…

14 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
その前に新羅語を教えてくれ。

17 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
まぁ新羅と朝鮮人も無関係だしな

23 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
東大寺のあゆみ
http://www.todaiji.or.jp/index/rekisi/gaisetu.html
この金鐘山寺において、天平12年(740)のこと、後に東大寺初代別当となる良弁が主宰して、我国で初めて、『華厳経(大方広仏華厳経)』の講読がはじめられ
ました。
この講義は、新羅で華厳(けごん)経の教えを学んだ大安寺の審祥を講師に招き、『六十華厳』といって、ブッダバドラ(仏駄跋陀羅:359−429)という人が中国語
に訳した60巻本の『華厳経』をテキストとして進められました。
また注釈書には、中国華厳宗の第三祖で華嚴教学の大成者といわれる法蔵(賢首大師)が著した『探玄記』が用いられたといいます。
   


28 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
>中国・唐との交流が主流の奈良時代に、朝鮮半島の仏教文化の影響が
>底流にあったことを確かな証拠で示した。

ちょっとした例が見つかっただけでそれが底流って,アホ?
それとも,在日or成りすまし?

29 名前:karon
>判読が難しく、1961年に小林氏が世界で初めて古文書にその痕跡を発見。
はいはい小林氏の自己ソース。

31 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
百済語と違うのか?
つか新羅語ってどうなんだろ?

39 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
権威を高めるため世界中の僧侶を集めて仏教経典を編纂してたんだろう。
読売は東大寺の国際性を伝えてるつもりでも
鮮人に掛かれば「授けてやった」になるんだよ。

日本人の日韓友好と鮮人の韓日友好は同じ物ではない。
鮮人という生き物の習性を早く理解しなさい。

49 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
これ逆だぞ。何時だったか忘れたけど、日本の僧侶が新羅人に
教えるために付けた印とか言ってたと思う。



乱れ飛ぶ怪電波

↓読んだらポチッっとおながいします↓

JUGEMテーマ:歴史


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 22:29
-, -, pookmark
【日本史】台湾はなぜ親日的なのか
台湾はなぜ親日的なのか…(長文です)


■1.感謝される日本隊■

 今回の台湾大地震では、日本がかなり目立った働きをした。地
震発生当日の夜には、日本からの緊急援助隊が一番乗りし、「空
港で一秒間も休まずに災害現場に駆けつけた」(地元マスコミ)。
規模も合計百二十五人と最大、機材も最新鋭、訓練、規律も最高
とあって、地元マスコミに高く評価された。[1]

 ファイバースコープや生存者の呼吸を電磁波で探知する「シリ
ウス」と呼ばれるハイテク機器、赤外線探知機、さらに大型の切
断器具などの最新鋭装備だけでなく、発見された遺体に敬礼を捧
げたり、「(救助できずに)申し訳ありませんでした」と遺族に
語る救助隊員の姿勢が、好感を持って報道されている。

 日本時代に育った高齢者「多桑(とうさん)」世代を中心に、
「よくやってくださいました。ありがとう。」と涙を浮かべなが
ら、丁寧な日本語でねぎらいの言葉を寄せたり、食事を提供して
くれる人も多い。被災地の、それも最も被害の甚大な場所にいな
がら、食事や水に困ったことがないという。[2]

■2.「多桑」世代の親日感情■

「多桑」とは、台湾語読みで「トーサン」、日本統治時代の「父
さん」の名残である。94年に作られた映画「多桑」は、「金馬奨
(台湾のアカデミー賞)」の観客投票最優秀作品賞を受けた。

 映画の主人公セガは、日本教育を受けた世代で、戦後も何かに
つけ、日本びいきだ。子供たちには「トーサン」と呼ばせ、家で
は日本のラジオ放送を聞き、ラジオの具体が悪くなると、日本製
じゃないとだめだ、とぼやく。セガの夢は日本に行って、皇居と
富士山を見ることだった。しかし、その夢を果たす前に、この世
を去る。

 始めは「奸漢(売国奴)」と非難していた長男も、成人して父
親の心情を理解する。この長男が監督として、実体験に基づいて
作った映画が「多桑」である。「多桑」世代の人々は、この作品
を見て涙を流し、若い世代も関心を向けた。[3,p257]

 しかし、「多桑」世代の人々は、なぜそんなに親日的なのだろ
うか。それは、今回の日本の救助隊と同様、いやそれよりもはる
かに大きなスケールで、台湾のために尽くした多くの日本人がい
たからである。今回は、それらの人々の一部を列伝風に紹介して
みたい。


■3.児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造■

 明治31(1898)年、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あ
ちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れ
ていた。ここで第4代総督として任命されたのが、後に日露戦争
でも活躍した児玉源太郎である。児玉は、後藤新平(後の東京市
長)を民政長官に起用した。

 後藤はもともと医師であり、社会衛生を重視した。アヘンに高
率の税をかけ、吸引者を徐々に減らすと共に、その税収を衛生改
善に当てた。当初16万9千人もいたアヘン吸引者は、50年後
の日本敗戦時には皆無となっていた。


 また、台湾は「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、
台湾平定時の日本軍戦死者164名に対し、病死者が実に4,642
名という有様だった。
[3,p306]

 後藤は悪疫予防のために、上下水道を完備し、主要道路は舗装
して、深い側溝を作り、汚水雨水の排出を速やかにした。これは
当時の日本本土でも行われていなかった。

 伝染病を抑えるために、台湾医学校を設立して、ここから多く
の台湾人医師が育った。またほとんど都市の形をなしていなかっ
た台北で、大都市計画を実行し、整然とした清潔な市街を作り上
げた。

 児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、
日本で最初の農学博士・新渡戸稲造である。新渡戸は、半年かけ
て台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけた。そして品種改良、耕
作方法、加工法の改善に取り組んだ。

 この努力が実り、1900年に3万トンだった産糖は、1940年には
160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となった。[4]

 児玉は、後藤、新渡戸を全面的にバックアップするかたわら、
各地を精力的に巡視して、80歳以上の老人男女を食事に招待す
る(饗老会)など、民心把握に努めた。日露戦争中は、満州軍総
参謀長となりながらも、台湾総督の職位を離れなかった。

 児玉の死後、江ノ島に神社を作ろうという議が起こったが、予
算11万円に対し、集まったのはわずか3千円であった。このこ
とが台湾に伝わると、残りの金額はわずか2週間で集まった。
湾人民がいかに児玉を敬愛していたかが窺われる。[3,p292]

■4.西郷菊次郎の治水工事■

 西郷菊次郎は、西郷隆盛が沖縄に流されたおり、愛加那(あい
かな)との間にもうけた子供である。米国留学の後、台湾が日本
に割譲された明治28(1895)年から、約7年間、地方行政に携わ
った。

 そのうち5年6ヶ月を、台湾の東北部、宜蘭(ぎらん)の庁長
として務めた。宜蘭は台湾第二の平原である蘭陽平原にあり、そ
こを流れる宜蘭河は、毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていた。

 西郷はこの治水工事に巨費を投じ、約1年半、延べ約74万人
の人員を投入して、取り組んだ。この治水工事が成功して水害は
根絶され、宜蘭の民衆有志は、その恩恵に感激して石碑を立てた。
この「西郷庁憲徳政碑」は、3m以上もの巨大なもので、漢文で
西郷菊次郎の徳政を高く称えている。[3,p90]

■5.教育に殉じた六氏先生■

 公衆衛生、治水、産業振興と並んで、重視されたのが、教育で
ある。台湾割譲が決まった明治28年当時、文部省の学部長心得
だった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先
すべきと具申し、自ら学務部の長となり、7人の教師と共に、台
北の北方に芝山巌学堂を開いた。

 当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続け
ており、台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていた。

 それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして
住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国
難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具
体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育に打ち込んだ。

 事件は翌明治29年元旦、伊沢の一時帰国中に起こった。叛乱
勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残って
いた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。

 しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示し
て6人の先生たち意に介さなかった。台北での拝賀式のため、山
を降りた時、6人は約100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人
は教師らしく、諄々と教育の意義を説き、一時は説得できるかに
思われたが、彼らの一部は聞き入れずに槍を持って襲いかかった。
6人はやむなく白兵戦で防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨
殺されてしまった。


 「命をかけて教育に当たる」という「六氏先生」の「芝山巌精
神」は、その後、長く台湾教育の指針とされた。昭和5年には芝
山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じ
た人々が、昭和8年までに330人祀られた。そのうち、台湾人
教育者は24人を数えた。


 芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成7年、後身である士
林国民小学(伊沢修二を初代校長とする)の卒業生有志は、六氏
先生の墓を建て直し、日本からも遺族、関係者約50人が出席し
て、「開校百周年記念祝賀会」が盛大に開かれた。

 芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古
跡・芝山巌」を次のように結んでいる。

 「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台
湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し
上げます。合掌。
[3,p49]

■6.台湾の神様になった森川巡査■

 森川清治郎は明治30年に、台湾に渡り、南西部の台南州(今
の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務した。森川巡査は、村内
の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、手弁当で、
子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えた。
また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民
とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、
薬や医者の手配まで世話をした。

 ある年、総督府は漁業税を制定した。しかし貧しい村のこと、
なんとか税の軽減をお願いできないかと村民は一致して、森川巡
査に嘆願した。巡査は「納税は日本においても義務であり、何と
も仕方がない。しかし生活が極めて苦しい実情を見ると忍びない。
税金の軽減については、その意を上司に伝える」と約束した。

 そして税の減免を支庁長に嘆願したが、逆に森川巡査が村民を
扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまう。村民のため
に尽力してきた森田巡査にとって、この懲戒は無念やる方なかっ
ただろう。自ら村田銃の引き金を引いて自決した。銃声を聞いて
駆けつけた村民たちは、変わり果てた巡査の姿を見て、嘆き悲し
み、村の共同墓地に懇ろに弔った。

 それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行
した時、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生も
のに注意せよ」と告げた。村民にその注意を守らせると、伝染病
はおさまった。

 村民たちは、自分たちの親や祖父母が一方ならぬ世話になった
森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていると感謝し、巡査
の制服制帽の姿を木像で作り、義愛公と呼んで祀った。この「日
本人の神様」は、今でも「観音様、媽祖様、義愛公様」と、人々
の信仰を集めているという。
[3,p131]

■7.蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉■

 日露戦争後、台湾は食糧不足に悩む日本本土にコメを輸出する
ようになった。しかし台湾米はインディカ種であって、内地人の
食習慣に合わず、価格も三等米の半分にしかならなかった。明治
43(1910)年、「コメを改良して、台湾農民に生きる道を」との
志を抱いて、農業技術者末永仁が台湾に渡った。末永は、磯永吉
という農学徒と出会い、二人で台中州で台湾米の改良に取組んだ。

 二人は10年の歳月をかけて、千余種の改良品種を実験し、つ
いに大正10年「台中65号」の開発に成功した。それは台湾の
気候によく合い、収量性、耐病性、そして美味にも優れた画期的
な品種であった。大正15年当時の伊沢台湾総督はこの対中65
号を「蓬莱(台湾の美称)米」と命名し、増産に大きな期待をか
けた。磯はその後、博士号を得て、台北帝大農学部教授となり、
島内での蓬莱米作付けの奨励と指導に大きな力を発揮していく。

 磯は、終戦後も中華民国政府に農業顧問として留まり、台湾の
農業発展につくした。昭和32年の帰国時には、異例の最高勲章
を授与され、同47年の死去まで、毎年20表ものコメが年金の
代わりに贈られた。
[3,p130]

■8.台湾の土となった明石元二郎総督■

 大正7(1918)年に赴任した第7代総督明石元二郎は、日露戦争
でロシア革命を支援し、勝利に大きく貢献した蔭の立役者であっ
た。明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把
握に努めた。

 台北刑務所を巡視した際には、受刑者は二十四、五歳に多いと
いう説明を受けると「それはまことに、相済まぬことである」と
言った。

 二十四、五歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生ま
れた計算になる。明石は、日本統治にまだまだ至らないところが
あるために、青年の犯罪を生んでいると考え、さらなる善政への
決意を新たにした。

 明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。しかしその間に日
月潭水力発電事業、台湾新教育令(内地人との教育上の区別を少
なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた。ちなみに現在の
李登輝総統は京都帝国大学出身)、道路や鉄道など交通機関の整
備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。


 台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督は、未来の総理大臣
という呼び声も高かったが、惜しくも赴任後一年間余にして病死
した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、人々の多額の寄付
によって200坪もある壮大な墓が作られた。
[3,p43]

■9.東洋一の大水利事業を完成した八田與一■

 嘉南平野は台湾南部に広がる最大の平原で、香川県ほどの面積
をもち、台湾の全耕作地面積の6分の1を占める。しかし雨期に
は集中豪雨のたびに河水が氾濫し、乾期には旱魃に襲われる。農
作物がほとんど育たない不毛の地であった。

 総督府土木課に奉職する八田與一は大正9年から十年の歳月
かけて、上流の烏山頭で大規模なダムを造り、平野部に1万6千
kmもの給排水路を張り巡らすという、東洋最大の水利事業を完
成させた。アメリカの土木学会から「八田ダム」と命名され、世
界的にも注目されたこの事業
によって、不毛の大地であった嘉南
平野は緑の沃野に変わった。[3,p175]

 台湾の民衆がこれをいかに受けとめたかは、昨年4月、嘉義県
の呉明○(韋に榲のつくり)氏が自費出版した「嘉南大○(土へ
んに川)建設工事簡介」の次の文章からうかがわれる。[5]

 当時東洋一の大水利事業を完成して、不毛の平原を台湾一の
穀物の宝庫に変えた功績は、永久不滅である。現在もなお嘉南
(嘉義、海南、雲南)の農民に父のように慕われている八田技
師の名は永遠に残るであろう。


 戦後、日本人の銅像はことごとくを引きずり倒されたが、た
だ独り八田技師の銅像が、今なお守り続けられている。さらに、
同夫妻の墓も作られて、5月8日の命日には毎年欠かさずに、
華南の人々によって供養が続けられている。愛や教育や宗教に
は国境がないことを如実に物語っている。

■10.台湾 加油(がんばれ)■

 日本が台湾を植民地にした事には、いろいろ議論がある。しか
し、明治日本はそのかけがえのない人材を惜しみなく台湾統治に
注ぎ込み、これらの人々はある種の同胞感を抱いて、心血を注い
で台湾の民生向上と発展のために尽くした。この事は、台湾の民
衆にもよく伝わり、それが「多桑」世代の親日感を生み出した。


 これらの日本人たちの努力に呼応して、台湾からも多くの偉大
な人材が輩出したのだが、これはまた稿を改めて紹介したい。

 大陸中国の圧迫に耐えながらも、台湾は、今日、世界でも有数
の経済力を誇る民主主義国として発展した。本稿で紹介した人々
は、それを草葉の陰で何よりも喜んでいるに違いない。

 今回の大地震で、日本からの励ましの投書が台湾の新聞にも掲
載された。「台湾 加油(がんばれ)」というそのタイトルは、
そのままここに紹介した我が先人たちの思いでもあろう。

富士山


enjoy korea
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pmilitary&nid=40284


▽関連動画










▽関連記事
【台湾】忘れ去れた台湾史 日本時代編 第一回
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5716
【日本史】台湾を東京以上にした日本人
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=4704
【台湾】いまなお慕われている日本人教師
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1607
日本と台灣 極東の民主国家
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1439
台湾・基隆 大日本帝国が整備した港湾
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1389
【台湾】「台湾紅茶の父」 日本人胸像除幕
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5347
「台湾蓬莱米の父」と呼ばれた日本人、磯永吉の手稿が発見される
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=223
【台湾】頭城鎮にある日本統治時代に亡くなった旧日本軍の「忠魂碑」、「子孫を台湾に招きたい」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2861
【台湾】元日本人からの手紙〜「日本人らしく胸を張り、立ち上がってほしい」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=529
【台湾】天皇陛下にも献上されたという「天皇米」こと「吉野一号」の復活を目指す動き
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=319
【台湾】「どうして台湾は親日なんですか」〜謝雅梅さんインタビュー
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1037
【台湾】頭城鎮にある日本統治時代に亡くなった旧日本軍の「忠魂碑」、「子孫を台湾に招きたい」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2861
【台湾】明石総督をしのび墓参 台北市郊外
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2541
【台湾】花蓮女中80周年記念に日本の卒業生も来台
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1808
【台湾】八田技師思い「日台の懸け橋に」 友好の会が台北の児童と交流
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1798
【台湾】台湾有情 廟に響く君が代
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1795
【台湾】八田技師夫妻を偲び墓前祭に250人が参列
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1786
【台湾】「日本人よ胸を張れ!」…“老台北”蔡焜燦氏、日本への思いを語る
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1619
60年目の2・28事件=台湾
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1300
「これが植民地の学校か」“老台北”蔡氏が戦前台湾の「綜合教育読本」復刻出版
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1152
【台湾有情】総統府に日本人の軌跡
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=862
日本軍人の霊を祭る廟
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=851
【国内】台湾少年工の大和魂
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5976
【国内】映画「緑の海平線〜台湾少年工の物語」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5399
高座海軍工廠と台湾少年工
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=582
戦前の日本映画 台湾で大量発見 ネット公開中、お宝映像も?
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=175
八田與一を偲び、日台150人が烏山頭に集う
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=992
高砂義勇兵
http://ameblo.jp/maokapostamt/entry-10015161800.html
【台湾】高砂義勇兵
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2802
【台湾】高砂義勇兵の記念碑、再建へ
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2617
「高砂義勇兵」記念碑移転〜解決の目処たたず
http://ameblo.jp/maokapostamt/entry-10013264106.html
高砂義勇兵Flash
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=957
「高砂義勇兵」碑は存続 台湾が妥協案、残る8基は撤去
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=91


台湾と日本

↓読んだらぽちっとおながいします↓

JUGEMテーマ:歴史
author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 21:45
-, -, pookmark
【日本史】神風特別攻撃隊
神風 KAMIKAZE

KAMIKAZE 神風

ミズーリに特攻する零戦

神風特攻隊はフィリピンで英雄だった


(2001/1/28up)

現地の「神風特別攻撃隊慰霊祭」で目撃した
「日本軍−もうひとつの真実」


ジャーナリスト 井上和彦氏



「意外な慰霊祭がフィリピンで執り行われた。『神風特別攻撃隊慰霊祭』。神風特攻隊が初めて飛び立ったフィリピン・パンパンガ州マバラカットを始めとする3カ所で行われた日本兵への慰霊祭で発見した、フィリピン人の意外な日本人観を気鋭のジャーナリストがレポートする。」




濛々と立ちあがる砂埃と共に、
日章旗とフィリピン国旗を握り締めた子供達の一団が押し寄せてきた。
子供達は、バンバン村を去ろうとする、
我々日本人一行に大歓声を上げて「日の丸」を振りつづけるのだった・・・。
平成12年10月25日、
フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、
タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、
「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。
私は、その3か所すべてをl日で回って歩いたのだが、
フィリビンの子供達が会場を去る我々日本人訪問団に
日章旗を振ってくれたのは、そのうちのバンバン村でのことだった。
東南アジアの国々から、
常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる我々日本人にしてみれぱ、
かなり意外で嬉しいハブニングであった・・・。


「なぜ日本が戦争に至ったかよくわかる」
 慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、
首都マニラの北方約80kmに位置し、戦時中には、
日本の「神風特攻隊」の飛行基地があった。
最初の神風特攻隊がマバラカット飛行場から出撃して
56年目にあたるこの日の慰霊祭は、
鹿児島県・最福寺の住職・池口恵観氏〈63)らによって執り行なわれた。
熱帯の強い日差しが照りつける会場には、
池口住職の読経が流れ、あたりは厳粛な雰囲気に包まれた。
この慰霊祭には、特攻隊員の遺族ら日本からの参加者に混じって、
フィリピン空軍将校やアメリカ人らも参列し、
特攻攻撃で戦死した日本軍人に鎮魂の祈りが捧げられたのである。

慰霊祭の取材にやってき
フィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリグ氏(25)は語る。

「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。
私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。
とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は英雄です」

フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な『軍艦マーチ』が
マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぷった。
かつて大東亜戦争の”天王山”とまでいわれたフィリピン決戦。
圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に、
反撃を試みる日本軍に残された手段は、
もはや250kgの爆弾を抱えて
敵艦に体当たりする特攻攻撃しか残されていなかった。
昭和19年10月25日、
関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、
ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、
レイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
この特攻攻撃を皮切りに、
終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、
4279名の命が散った。
もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、
連合軍将兵を震えあがらせた。
こうした神風特攻隊も戦後の日本では
”戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。
ところが、”カミカゼ”を生んだフィリピンではその捉え方がまっ たく違っていた・・・。
式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯(70)は静かに語る。
「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。
涙がとまらなかった。・・・
こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。
同じアジア人として、
このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを
”誇り”に思っています」
1974年(昭和49年)、特攻隊の生き様に感動したディゾン画伯は、
神風特攻隊慰霊碑の建立を思い立ち、マバラカット市長に進言した。
そして画伯が感銘を受けた
『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)
猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、
やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたのだ。
しかし、残念ながらこの慰霊碑は、
先のピナツボ火山の噴火によって喪失してしまったのである。
Kamikaze Memorial Society of Philippines(フィリビン・カミカゼ記念協会)の
会長を務めるディゾン画伯の自宅には、自らの手になる「敷島隊」
の5人(関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野盤雄一飛曹・永峯肇飛長・
大黒繁男上飛)の肖像画を掲げた、
「カミカゼ・ミュージアム」が設けられている。
肖像画の前に立ったディゾン画伯は、
「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。
「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を
様々な角度から検証してみました。
その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。
そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていた
アジア諸国を叱責した理申も理解できたのです」
私の方に向きなおった画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。
「当時、白人は有色人種を見下していました。
これに対して日本は、
世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして
戦争に突入していったのです。
神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の
”抵抗”だったといえましょう」
そしてディゾン画伯は、両手を固く結んで私に託すのだった。
「神風特攻隊をはじめ、
先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。
これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
東南アジア諸国の中でも
「反日的」と思われがちなフィリピンで、
こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。
さらに、私にはディゾン画伯の、
「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですょ」
という言葉が耳について離れない。
この”疑問符”を取り払ってくれたのは、
地元通訳のマリオ・ピネダ氏(73)の証言だった。
「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。
立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。
これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。
・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、
自分たちでモノを作ることを学ぱせてもらえなかった。
人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。
アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」
”自由””民主主義”というアメリカン・イデオロギーだけでなく、
あらゆる”メイド・イン・USA”を世界一と驕るアメリカは、
植民地フィリピンに対して愚民化政策を行なっていたというのだ。
そしてピネダ氏は、
「フィリピンは今でもアメリカのパペットレジーン(操り人形)ですよ」
と呟き、苦笑いを浮かべた。
ディゾン画伯と同じく、
ピネダ氏もまた”白人対有色人種”という
意外な視点で歴史を見つめていたのである。
アジア人でありながら
その多くがスペイン風の名前を持ち、
かつては英語を強要されたフィリピン人なればこそ、
こうした地球大の尺度を持てるのだろう。
これまでフィリピンが”親米反日的”と思われてきたのは、
大東亜戦争でこの地が日米両軍の決戦場となったからにほかならない。
日本軍はこの地で約50万人(全戦没者の約4分のl)の将兵を失ったが、
戦場となったフィリピンの人々は一般市民を含むl80万人が犠牲となった。
ところが、こうしたフィリピン人犠牲者の多くは、
アメリカ軍の無差別爆撃や艦砲射撃によるものだったのである。
むろん、この事実を地元の人々が知らないわけがない。
日本人にとってのこうした”初耳”は、数え上げれぱ枚挙にいとまがない。
例えぱ、米比軍捕虜を約60kmにわたり歩かせたという
「バターン死の行進」。
これは、一般に日本の「蛮行」といわれている。
だが、ある地元民は私にこう語った。
「実は、日本軍は、米比軍捕虜を
サンフェルナンドからカパスまで汽車で護送しています。
捕虜達を虐待するために歩かせたように言われるが、そんなことはない」
また日米の攻防戦が繰り広げられたサマット山頂の博物館には、
日本軍が地元住民に医療処置を施し、
友好的な交流があった事実を物語る写真が堂々と掲げられてもいる。
在比邦人何けテレビ局「WINSチヤンネル」の
キャスターでウインズ・インターナショナルの社長・水島総氏(51)は、
このあたりについて次のように説明する。
「フィリピン人は日本で伝えられているような”反日”などではなく、
むしろ親日的ですよ・・・。
フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりも”リアリスト”です。
戦争があれぱ多少なりとも悲劇はあると、
現実的な考え方をしています。
ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません」
異民族の侵略を受けつづけたフィリピン人の痛覚は、
ダイナミックな歴史観と確固たる愛国心を生んだ。
そしてそんな土壌にこそ”英雄”を敬う気風が育まれたに違いない。
事実、この国の国歌にも
「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」という一節がある。
だからこそフィリピンの人々は、
国を守るために生命をかけた神風特攻隊を”英雄”と称えるのだろう。
外国人の日本人観に多大な影響を与え、
大東亜戦争における日本の精神的象徴ともいえる神風特攻隊は、
フィリピンの人々に敬われ、そしてその勇気が称賛されている。
我々日本人はこうした現実も、認識する必要がありはしないか。
「カミカゼ・パイロットはヒーローです」
同じ10月25日、
タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。
この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。
そして、冒頭に記したように、
帰路につこうとする我々を子供達は
「日の丸」の小旗をちぎれんぱかりに打ち振って見送ってくれたのである。
日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。
子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。
式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。
「Brave!」(勇敢)
その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。
ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています・・・・」
引率の男性教師は、
「こうした歴史教育を通して、
子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と話る。
私は学生達にもう一度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」
屈託のない笑顔で皆は答えた。
「もちろんです!だってあの人達はヒーローですもの・・・・」

KAMIKAZE 神風
KAMIKAZE 神風KAMIKAZE 神風
KAMIKAZE 神風
KAMIKAZE 神風

●キーファ艦長(空母「タイコンデロガ」艦長)
  キーファ大佐は神風特攻機の効果について、ひとりよがりの幻想はすこしも持っていなかった。
「タイコンデロガ」がアメリカに帰投後、
シカゴでおこなわれた新聞記者会見の席上、
特攻機は普通航空機の4倍ないし5倍の命中率をあげている、と語った。
「特攻機以外の爆撃から逃れるよう操艦するのはさして困難ではないが、
舵を取りながら接近してくる爆弾より逃れるよう操舵することは不可能である。」と彼は説明した。
●スプルーアンス提督(ニミッツ大将への報告)
  敵軍の自殺航空攻撃の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、
今後の攻撃を阻止するため、利用可能な、あらゆる手段を採用すべきである。
第20航空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、
九州および沖縄の飛行場にたいして、
実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する。
●駆逐艦「リュース」乗組士官
 この戦闘は、断固たる決意を秘めた自殺機の攻撃を阻止することが、
事実上不可能なことを示している。
●マルカム・ハーバート・マックガン大尉(護衛空母「サンガモン」乗組パイロット)
 炎上中の特攻機を海中に投棄するのを手伝ったマックガンは、
ずっとのちになって、日本軍パイロットを賞賛して、
「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、
私より立派だ。私には、あんなことはやれなかっただろう」と語った。







KJCLUB
http://www.kjclub.com/jp/exchange/photo/read.php?uid=1130&fid=1130&thread=1000000&idx=1&tname=exc_board_53&number=985

▽関連記事
【日本史】フィリピン少年が見たカミカゼ
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5782
【歴史】日本とインドネシア
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5850
【歴史】日本を評価する外国
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5717
【国際】日本の文化そのものが最大のプレゼントだった
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5356
【日本史】日本人よ、胸を張れ
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5612
【国内】田母神の6800字を見捨てるな!
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5411
【日本史】世界に影響を与え続ける日本
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=5167
【日本史】「戦争がなかったら、私は今でも陛下の臣下です」サイパン人の言葉
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=3553
【国内】外国人が見た日本の戦い
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2005
ロシア人元日本スパイ「アジアのソ連化防いだ」
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=1462
【国内】ドイツ生まれの靖国ばあさん
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2449
【国内】60余年ぶりに助けに来てくれた日本軍
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2694
韓国人が知らない黒人
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=208
【台湾】高砂義勇兵
http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2802



KAMIKAZE 神風

↓読んだらぽちっとおながいします↓

JUGEMテーマ:歴史


author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 23:29
-, -, pookmark