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「ラストエンペラー」溥儀の自伝、完全版が刊行へ
 映画「ラストエンペラー」で知られる中国清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の自伝「我的前半生(わが半生)」が、大幅に加筆した完全版として来年1月に出版されることになった。極東国際軍事裁判(東京裁判)での自らの偽証を明確に謝罪し、日本軍と満州国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省したことなど、これまでの1964年版では削除・修正されていた部分が盛り込まれ、自己批判色の強い内容となっている。

 溥儀は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始。「わが半生」はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を削除・修正し、64年に出版された。すでに187万部近くに上り、日本語訳も出ている。今回出版されるのは、当時削除された16万字近い内容を加えるなどしたものだ。

 東京裁判では、溥儀が日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」の執政に就任したことについて、日本人戦犯の弁護側が「自発的だったのではないか」と主張し、その証拠として溥儀が南次郎陸相(当時)にあてた「宣統帝親書」を示した。裁判に証人として出廷した溥儀はこれを「偽造だ」と否定した。

 完全版では、うそをついたために日本の行為の徹底的な解明を妨げたと認めて「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と明確に謝罪している。64年版では「証言を思い出すと非常に遺憾」となっていた。

 また45年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことについて「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。

 64年版でも満州国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。

 中国紙の報道によると、出版元である北京の群衆出版社は資料整理をしていた04年、64年版の削除・修正前の原稿を発見。「(削除や修正は)過去の様々な理由によるものだが、今、その内容は溥儀の真実の生活を理解し、歴史を認識するうえで研究価値が高い」と判断し、出版に踏み切ったとしている。

     ◇

 〈愛新覚羅溥儀〉 1908年に2歳で清朝第12代の最後の皇帝「宣統帝」として即位したが、辛亥革命により12年に退位。31年の満州事変勃発(ぼっぱつ)を受け、32年に建国を宣言した「満州国」の執政に。34年には同国の皇帝になる。日本の敗戦とともに満州国は崩壊し、旧ソ連軍によって抑留された。46年には東京裁判に出廷。50年、中国の撫順戦犯管理所に移送され、59年に特赦で釈放された。67年、病没。

【ソース】asahi.com
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200612160326.html



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author:玉置 麗華, category:満州, 14:23
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満州の歴史 第一回
今回は少し半島を離れて、満州地方のお話です。

この間、「ラスト・エンペラー」という映画を久しぶりに見た所、よく分からない部分が多く、また日本が侵略者として描かれ過ぎのような感想を受けました。
満州帝国の興亡についてはある程度知っていたのですが、まだまだよく分からない事などを改めて整理する為、また知らない人も多いと思いますので、これを機にどこまで出来るか分かりませんが、まとめてみたいと思います。
まず、清に至るまでの歴史を駆け足で……と言いたいところですが、これだけでもかなりのボリュームになりそうな予感です。
駆け足なので、判り難いところもあるかと思いますがご容赦を。

■第一回 中国史は漢民族の歴史ではなく他民族の王朝史

満州の地に歴史上初めて刻まれた国は春秋時代の「燕」といいます。この国は満州南部から現在の河北省にかけて存在し、都は北京付近にあったようです(だから北京の別名は「燕京」といいます)。

その「燕」の北には周知のように北方騎馬民族が居て、「東胡」「匈奴」「鮮卑」などと呼ばれていました。

春秋時代「斉」が初めて長城を築いたとされていて、さらに戦国時代には中原の「韓」「趙」「魏」「楚」が長城を作り、北方と中原を分離しました。

秦が中原を統一すると、「趙」「燕」の長城をつなぎ、西は甘粛省岷県臨?から東は満州の遼陽までを完成させます。

秦が長城を完成させると、その長城の南側には皇帝を頂点とする「一君万民」の制度を持つ農耕帝国が誕生ました。

と同時にその北には匈奴を中心とした北方諸民族の連合国家、遊牧帝国が結成されます。

この二つの勢力が長城を挟み二千年以上にも渡って抗争を繰り返す事になります。

その二つの勢力を分かつ長城はその後漢の時代に西は敦煌の玉門関まで延ばされました。

『史記』の「匈奴列伝」には「先王の制に、長城以北は弓を引く国」と記されていて、漢と匈奴の戦いの末、長城が講和条約によって取り決めた正式な境界線となりました。

その後、長城は南北朝時代、隋の時代に徐々に南下し、明の時代には現在と同じ位置になり、西は嘉峪関、東は山海関まで延べ二千四百キロに及びました。

秦が築いた長城は匈奴の侵入を防ぎましたが、秦以降の長城は彼らの侵入を防げることが出来ず、彼らは度々長城を越え、中原に侵入しては農耕民を脅かしていました。

その為、古来より中原を支配した王朝は、幾度となく匈奴討伐を繰り返しましたが、多くの場合失敗に終わっています。

元々、万里の長城の北とは中原の民からすると、「決して一緒になりたくない世界」で、単なる防衛線だけでなく、文化・経済を分ける境界線でもあったのです。

漢帝国以来、遊牧帝国と農耕帝国の争いは長城を挟んで行われていました。

しかし、五胡十六国時代に鮮卑人により華北一帯を支配され、「北魏」が建国されます。これ以降、長江を境界とする争いに移行します。

その後中原を統一した隋と唐も五胡の「鮮卑」系の王朝でした。

この頃満州地域にあったのは「高句麗」であり、その高句麗は満州族の一種、ツングース系の靺鞨族が建国した国です。

高句麗が唐・新羅に討伐された後、「渤海」が起こりますが、これも唐の玄宗から渤海郡王に封ぜられた大祚栄氏が作ったツングース系女真族の国でした。

また北方より唐に脅威を与え続けていた突厥帝国も東西に分裂し、東突厥は唐の攻撃により滅亡します。

東突厥に代わって起こった回?でしたが、八四〇年に滅びます。

唐は「安史の乱」から衰退を始め、「黄巣の乱」以後は軍閥が割拠するようになってしまい、各地で民族国家が確立されました。それが五代十国の時代です。

その頃にはモンゴル系の契丹と呼ばれる民族が「遼」を興し、渤海を滅ぼして北アジアを統一し、長城内に侵入して五代の後晋王朝の樹立を助け、燕雲十六州を譲り受けます。

さらに後晋を滅ぼし、中原北部の大半を占領し、五代の後を継いだ漢族国家「宋」と黄河を挟んで激しく対立しますが、「?淵の盟約」を結び兄弟国家となります。

その盟約により、宋は遼に年に絹二十万匹、銀十万両と言う莫大な財宝を贈る事になってしまいました。

この時初めて中華帝国は、莫大な費用を払って夷狄から平和を買ったのです。

時代が進むと、遼に支配されていたかつての渤海の女真族の一部族が大半の女真族を統一し、「金」を興し、宋と組んで遼帝国と抗争し、ついに遼を滅ぼします。

また宋の都を陥れ、皇帝、上皇を始め、その后妃、皇族、廷臣数百名を北方に連行します。

翌年、宋の皇弟が擁立され、南宋政権が誕生しました。

金は南宋との抗争の内に、新興のモンゴル帝国「元」と南宋の連合軍に滅ぼされ、南宋もまた元によって滅ぼされてしまいました。

史上初の世界帝国を築いた元でしたが、「紅巾の乱」が起こり、漢人の朱元璋が異民族を長城の北に駆逐して明を建国しました。

この時、朝鮮半島を支配していた「高麗」は元の属国として戦争に参加していましたが、高麗の将軍、李成桂は明との密約により、高麗王を殺害し王位を簒奪して「李氏朝鮮」を興し、さらに落ち延びてきたかつての宗主国である元の残党を皆殺しにしています。

これより「李氏朝鮮」は「後金(後の清)」の台頭まで、明の属国となります。

明はモンゴル族を長城の外に追い出しましたが、韃靼(タタール)や、瓦刺(オイラート)に侵入され、絶えず悩まされることになります。

また明は満州地域に進出し、多大な財力や人力で遼東経営を試みましたが、これは六十年足らずで失敗し放棄する事になります。

そしてモンゴル族は「北元」を興し、明と抗争を続けます。また、建州女真のヌルハチが「後金」を建国しました。そして二代目の太祖の時、「清王朝」を作り、皇位について北元からチンギスハン以来の伝国の璽を受け継ぎ、正式な元の継承国家となりました。

さらに、三代目の順治帝の時代に北京に入城、その後四十年かかって明を滅ぼしましたが、ここでも明の属国であった朝鮮人は、明を裏切って清の属国となり漢人虐殺を行っています。

清はその後百年もの歳月を費やし、ジュンガル帝国と抗争しながら、外モンゴル、チベットまで平定します。
その後、ジュンガル帝国も滅ぼし、緬旬、安南、ネパールまでその支配下に置き、一大帝国を作り上げました。

この様に、中国四千年の歴史というのは、漢民族の王朝史ではなく、様々な民族が漢民族が住む中原を支配した歴史であり、日本の様に一つの王朝が続いて来たわけではないのです。

第二回につづく (掲載日は未定)


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author:玉置 麗華, category:満州, 10:53
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