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日本における元寇の評価に関する私見
筥崎宮(福岡市)


モンゴル軍


 我々日本人は、元寇について「日本軍は2度の元軍による侵攻において、優勢な元軍の攻撃で苦戦したが、偶然の台風によって蒙古軍の軍船が破壊されたために助かった」という話を必ず聞かされる。そして、多くの者がそのように信じている。この説は、八幡愚童訓という日本の元寇の記録が出典となっている。この八幡愚童訓は、14世紀初頭(成立年代及び成立過程については諸説有り)、筑紫(現在の福岡県)の高良大社という神社の社人が京都に出向き、記録させた八幡信仰の布教用の書物であって、この書物に八幡神が起こした台風が蒙古軍を退散させた主因であると書かれているのである。

元寇


 一方、敵である高麗の記録「高麗史 金方慶伝」には台風が敗北の主要な原因とは書かれておらず、第一回目侵攻(文永の役)においては、蒙古・高麗軍は奮戦したが、形勢は不利であり撤退を決定して船に乗り込んだ時に運悪く暴風に遭い、多くの軍船が破壊されたとある。また、第二回目侵攻(康安の役)では、対馬・壱岐まではほぼ順調に占領したものの、九州上陸は優勢な日本軍に阻止されてことごとく失敗し、到着が遅れた南宋軍と合流するため壱岐まで撤退したが、日本軍の追撃を受け、ほぼ三ヶ月間海上をさまよううちに、船上では食料の欠乏や伝染病などにより3000人が死亡し、軍船の破損もひどくなり、もはや戦争を行える状態ではなくなっていた。このため、九州上陸を諦めて本国に帰還する建議がなされたが、皇帝(フビライ)の命令に違反するという理由で却下された。その後、南宋軍と合流して九州上陸を再開したものの、台風に遭遇し、さらに日本軍の追撃を受けたと記述されている。中国の史料である元史も、概ね同様の記述がなされている。


 実際に、蒙古・高麗連合軍は第一回目、第二回目ともに九州沿岸に橋頭保を確保することに失敗しており、日本軍は敵軍の内陸侵攻を完全に阻止していることから、作戦的には日本軍の勝利であり、特に第二回目侵攻は、上陸作戦そのものを完全に阻止している。
 このような事実と高麗史などのの記述を見ると、八幡愚童訓にみられる日本軍の惨敗や苦戦という状況は見られず、むしろ有利に戦闘を進めている。この勝利したはずの日本側による「日本軍苦戦」の記述は何故なされたのであろうか?

元寇


 まず、八幡愚童訓という書物が神社の関係者によって編纂された史料であることに注目する必要がある。元寇当時、朝廷は当時の最高実力者である亀山上皇自ら戦勝祈願の祈祷をし、また各地の八幡宮(戦争の神)にも祈祷をさせた。この祈祷を行った神社の一つが八幡愚童訓を編纂させた高良大社である。つまり、形骸化された権威を回復することを狙う朝廷としては、「元寇の勝利は、武士団の力によるものではなく、朝廷とその支配下にある神社の祈祷によるものであるという論理を構築する必要があったと考えられる。
 また、武士団を統括する幕府は、このような朝廷と神社の宣伝を阻止することに消極的であった。元寇が侵略に対する防衛戦争であるという特性から、勝利の後に新たな土地が手に入ることはなく、幕府は戦功のあった武士に報酬として与える領地が不足したため、武士の功績をできるかぎり少なく算定する必要があった。これが、幕府が朝廷による宣伝を阻止しなかった理由であると考えられる。鎌倉幕府滅亡の一因は、元寇の戦功に対して幕府が正当な恩賞を与えなかったため、これに不満を持った武士団が離反したというものがあるが、実際に苦戦続きで戦功がなかったのであれば、武士団も恩賞の少なさに異議を唱えることはできなかったであろう。

高良大社(久留米市)


 最後に、日本人が八幡愚童訓に基づく歴史観を持つのは仕方がないと言えるが、韓国人が自国の正史である高麗史がありながら、八幡愚童訓に基づく歴史観を構築しているのは極めて不思議なことである。正史って一体何よ?と。(苦笑





写真は筥崎宮(福岡市)と高良大社(久留米市)

画像は「蒙古襲来絵詞」及びその模写



【ソース】enjoy korea
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=61134




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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 13:47
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