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台湾・基隆 大日本帝国が整備した港湾
中国は台湾を「日本に属する」と見なしていた

 日本人と台湾人の関係は、意外と長くて深い。場合によっては、支那人と台湾人以上のつきあいだともいえるだろう。倭憲が東シナ海で活躍していた時代、倭憲はしばしば台湾を中継貿易基地や給水地として利用していたといわれている。明確な史料がないため、その裏付けをすることはできないのが残念である。
 しかし、一六二四年にオランダ人(オランダ連合東インド会社)が通商拠点として台湾南部を占領し、今日の台南付近の安平港にゼーランジャ城を築いたときには、すでに百数十名の日本人がいたという記録が残っている。その二年後にスペイン人が北部台湾の淡水港に築城したときにも、日本人は存在していた。
 オランダ時代の台湾と日本人については、オランダが設定していた一〇パーセントの貿易関税をめぐって、長崎代官・末次平蔵の朱印船船頭であった浜田弥兵衛とオランダ長官のヌイツとが争った事件が有名だろう。
 これは一六ニ五年、朱印船の既得権を主張して関税を拒否した紛争から、渡台してきた浜田弥兵衛を当時の台湾長官が監禁したことで事が大きくなった。浜田はその逆襲として、二八年に長官ヌイツを監禁、さらに人質としてその息子五人を平戸まで連行し、幕府にオランダの平戸商館を閉鎖させた。さらに、オランダが有する台湾の城塞引き渡し、または破壊を要求。結局、オランダ商館は青銅の灯籠を日光東照宮に献ずることで一事をしのいだが、江戸幕府とオランダのバタビア政府との間に残ったしこりは、和解まで十年もかかった。
 しかし、この事件以外にも、あまり知られていない日台関係があった。
 十八世紀、乾隆帝時代の清国で完成された明朝一代の正史『明史』には、台湾北部の今日の基隆(キールン)にあたる鶏籠(ケイラン)国(高山国)は「外国列伝」のなかで紹介され、「日本に属する」とも記されている。当時の支那人は、台湾を東方海上に浮かぶ日本の一部だと誤認していたのだろう。
 確かに、清朝占有前の台湾は倭寇暗躍の地であり、「倭寇の巣窟」とみなされていたため、日本の領土の一部だと誤認してもおかしくない。台湾が倭寇の根拠地だったことは、「寇民遁れて海に入りて台湾の地に向かう」(一五六三年)という明代の記録からも分かる。
 支那人が持っている台湾知識は貧弱そのものであり、宋代につくられた『華夷図』には、海南島は描かれていたが、台湾は存在していなかった。史上最初の台湾の地図は、ポルトガル人がつくったものである。
 このころの日台交流でよく知られているのは、一五九三年(文禄二年)に豊臣秀吉が使者を台湾へ送ったことである。秀吉は、「高山(タカサング)国王」に入貢服従を促す内容の国書を原田孫七郎に託した。孫七郎は、豊臣秀吉にフィリピン遠征を提案したことでも知られている長崎の貿易商人、パウロ原田喜右衛門の手代であった。
 しかし、この秀吉の目的は達成されなかった。なぜなら、当時の台湾には主権者たる「国王」がおらず、各地方の代表者といえば各集落の首長であり、国書の受け渡しなどできる状態ではなかったため、入貢のことまで話をすることができなかったからだ。
 それでも日本の幕府は台湾との接触を試み続けた。それを裏付ける二つの記録が残っている。ひとつは、山田長政がシャム(タイ)へ行く途中に一時台湾に滞留していたという記録。もうひとつは、泉州堺の商人・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)が一五九四年(文禄三年)に台湾で奇利を博し、日本に帰って秀吉に謁見して珍品を献じたという話が『三才図会』にある。
 また、秀吉の逆鱗に触れた助左衛門は、桜丸号にて琉球へ逃れ、一五九六年(慶長元年)に台湾の淡水に寄港したという記録が残っている。さらに彼には、一六一一年にはシャムへ渡るため、台湾内を探険したという記録もある。
 江戸時代に入った一六〇八年(慶長十三年)、徳川家康は日本に漂着した台湾のアミ族を駿河で引見した。このことは、『パンチア国人と今』という書物に記録されている。台湾に興味を持った家康は、その翌年、有馬晴信に台湾探険を命じる。
 家康の命を受けた有馬晴信は、部下を台湾に送ってまずは視察をし、原住民を撫順してから通商を試みたが、結果は失敗に終わる。一六一五年(元和元年)、今度は長崎代官・村山等安が高山国の朱印状を得ることができた。村山は人を集めて台湾へ渡り、日本との貿易と入貢を求め、ひそかに台湾占有を狙ったのだが、有力な後援を得られずにこれまた失敗した。
 先に述べたように、その後の一六二四年以降、台湾南部はオランダ人に領有され、一六二六年以降、台湾北部はスペイン人に十六年間も領有される。
 オランダ人は一六四三年、ボーン大尉を隊長として東台湾探索を行っている。目的は金鉱脈探しであり、探索隊は台南の安平から出発して北回りに淡水、基隆を訪れた。このときの金鉱情報提供者のなかに、伴天連(カトリック宣教師)らしい人物であるハシント九左衡門という日本人の名前が出ている。
 オランダ人の記録によれば、日本の朱印船が南海で活躍していた時代、朱印船は基隆、淡水、安平、高雄も訪れており、各港には日本人街ができていたらしい。
 倭寇時代からオランダ人が台湾を領有した時代までの日台関係は、人的ではなく物的な関係が主流であった。八幡大菩薩の幟を掲げていた八幡船や御朱印船は、甲冑、刀剣、塩、漆器、扇子、生活雑貨を台湾へ積み出し、金、鉛、生糸、絹織物、鹿の皮、ガラス、黒檀などを台湾から日本へ持ち帰っている。もっとも、台湾は貿易の中継地として利用されていただけで、この当時の台湾には甲冑など必要なかった。
(黄文雄『台湾は日本の植民地ではなかった』)

基隆港




千トン以下の船しか入港できなかったお粗末

 台湾の陸上交通は、十九世紀末に至るまでほとんど発達せず、主に海上交通に頼る生活だった。台湾島は中央に高山が縦走しており、陸上交通の整備は非常に困難なことだったのである。
 河川はすべて海に流れることから、港はたいてい河口につくられ、海上からの往来を常としていた。河川と河川の間の陸地では、原住民と中国大陸からの移民たちが、それぞれ閉鎖的な村落共同体をつくって分かれて住んでおり、物と人の交流はあまりなかった。それどころか、村落間での対立や抗争が激しく、自衛のために陸には道らしい道をつくらず、河川に橋はなかったため、人々は陸路ではなく海路で日常の用を足していた。そのため西海岸では大航海時代以来、対外・対内交通とも港に頼る生活が続いていたのである。
 この当時の台湾では、暴風雨で船舶が難破し漂流物が海岸に漂着したときなどは、原住民も漢族移民も競ってそれを奪いあった。漂流者は、見つかれば殺されるか奴隷にされるかという風習もあった。琉球の漂着民が殺傷された牡丹社事件には、このような背景があったのである。総督府はこの風習を禁止すべく、一九〇〇年、「台湾水難救護規則」を発布している。
 約二十三カ所ある港のなかでも比較的発達していたのは、北の基隆、淡水、南の安平、高雄(打狗)であった。とはいっても、やはりジャンク船か小船がせいぜいのお粗末な港であることには変わりない。船が港に入れない場合は、荷物を小船に積み替えて運ぶしかなかった。
 近代的海港とはほど遠く、淡水港でさえ満潮時には一千トン以下の船しか碇泊できない。多少港らしい基隆港には暗礁が多く、冬になると北東風や季節風が吹きつけ、ひどいときは半年も荒波が収まらないこともあった。基隆港が築港する前には、暴風雨の日はいかなる船舶も台湾に入れず、澎湖島の媽宮(馬公)湾へ避難するしかなかった。
(黄文雄『台湾は日本の植民地ではなかった』)

※麗華注
高雄は現地では『打狗(ダーガオ)』と呼ばれていて、それを日本が『高雄』と当てました。
現在は『高雄(カオシュン)』と呼ばれています。

基隆市




国際港をつくった川上浩二郎

 一八五八年、天津条約のもとで台湾の安平が開港、その二年後の北京条約では淡水が、一八六三年には高雄と基隆の開港が決定した。これ以来、この四つの港が開港地として外国との通商を許された。しかし、通商許可を得たものの港が整備されていなければ何の役にもたたない。
 そこで日本は築港に取りかかることとなる。基隆港の築港工事は児玉総督時代の四大事業のひとつとして、長期間にわたって行われた。ここで多大に貢献したのが川上浩二郎である。
 川上浩二郎は新潟県古志郡東谷村生まれで、一八九八年(明治三十一年)に東京帝大土木工学科を卒業している。その後、農商部技師、台湾総督府技師、臨時基隆築港局技師兼総督府技師を歴任。一九〇一年、インドと欧米各国を訪問し二年後に帰国する。
 川上は一九〇八年七月、台湾総督府臨時工事部技師兼台湾総督府技師に任ぜられ、翌年十月、兼官を免じて築港工事の基隆出張所長に専念する。一九二一年、工学博士の学位を受け、後に退官して博多湾築港会社専務取締役に就任した。一九三三年(昭和八年)に六十一歳で永眠している。
 日本領台初期の基隆港は沖縄、門司、長崎との間に二千トン級の定期航路を有していた。しかし、船が港に着くと港内には入れずサンパン(木造の小型船)に乗り換え、揺られながら上陸したものだった。
基隆港では、一八九八〜一九〇一年までの四年問に、汽船五、帆船一、ジャンク船十九、漁船五十四もの船が難破している。また、港内の水深は浅く、内港の半分は干潮時には露出してしまう。水が干上がらない部分でも二〜四メートルで、一千トン級の船さえも入れなかった。
 築港工事は、一八九九〜一九〇二年に至る四年問に第一期が施工され、防波堤と港内浚渫(しゅんせつ)工事が行われた。さらに、一九〇六〜二一年に至る七年間に引き継がれた。延長七百七十メートルの岸壁、港内岩礁の除去、浚渫、起重機の設置、倉庫建築、海壁・内港防波堤の建築といった大掛かりな工事の末、船舶を五隻、繋船浮標(ブイ)に八隻と、六千トン前後の船舶を停留させることができる立派な港が完成した。
 一九二六年(大正十五年)には、入港船舶は一千九百五十八隻、合計重量は六百十一万トンにものぼった。これ以後、年々拡張工事が行われ、ますます港としての機能を充実させている。
 基隆港よりやや遅れて打狗(高雄)港築港も進められ、両港は戦前の二大国際貿易港として台湾南北の海外への門戸となり、戦後、経済の急成長にともなって、高雄港は一躍世界的港となっている。
(黄文雄『台湾は日本の植民地ではなかった』)

基隆廟口夜市


基隆市(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E5%B8%82



周杰倫『退後』(舞台が基隆)

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author:玉置 麗華, category:[台灣]ニュース, 15:30
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