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蘆溝橋事件 その1
 明治34年の北清事変(義和団の乱)の講和議定書(辛丑条約)を根拠として当時の北支は、日本をはじめ英米仏伊各国が軍隊を駐屯させていて、自由に訓練・演習を行う権利を持っていました。各国の兵力については取り決めがありましたが、治安情勢に伴って増派と撤兵が繰り返されるのが常で、それは各国の情勢判断に任されるのが実状でした。

 また当時は日本人に対するテロが頻発しており、緊張が高まっている時でした。

昭和10年5月親日派新聞編集者2名天津で殺害される
8月満州から天津に向けた国際列車襲撃、乗客約20人殺害される
11月中山海軍准尉上海国際租界で射殺される
12月在天津日本軍守備隊総司令官多田陸軍中将宅に爆弾、中国人召使い負傷
上海・漢口での大規模反日デモ
上海の日本海軍本部公館に爆弾
昭和11年1月天津付近で2件の日本人商店が中国正規軍により掠奪される
南京3000人の反日デモ
仙頭で2000人の反日デモ
仙頭で日本領事館勤務日本人警官射殺される
広東の中国警察と税関警備兵が36カ所の中国人事務所を襲い、日本商品を没収
6月北京近くで日本兵が中国軍正規軍兵士により、重傷を負う。
山東省で日本人1人射殺さる
7月天津の日本総領事館勤務の警官2名銃撃され、1名死亡、1名重傷
三井物産上海支店日本人社員射殺される
8月天津の日本語学校襲撃され、日本人教師拉致される
成都で1万人の暴徒に襲われ、新聞社特派員3人殺害、一般人2名重傷
9月漢口の日本領事館の警官が射殺される
上海で日本海軍兵1名射殺、2名重傷
湖南省で日本の汽船会社事務所放火される
長沙の日本総領事館に爆弾
広東省で日本人薬局経営者が惨殺される
10月青島の紡績工場反日ストで2週間操業停止
11月日本人船乗り、上海で射殺される
昭和12年2月漢口で日本人事業家の妻が中国人に襲われた
3月広西省ですべての日本人追放
5月仙頭の日本領事館勤務の警官に対する暴行
大連沖で2隻の日本漁船に対して、中国税関警備兵による発砲
6月天津付近の日本人農場襲撃、放火

 昭和12年7月7日19時30分、1個中隊(支那駐屯歩兵旅団第1聯隊第3大隊第8中隊)が蘆溝橋付近で、「薄暮の接敵行動と払暁攻撃の為の攻撃陣地構築」の夜間演習を開始しました。その日は月のない星空で、夜空に蘆溝橋城壁が望める静かな暗夜でした。

 演習が終わりに近づいた22時40分、演習終了を告げる伝令に向って機関銃が誤って30〜40発の空砲を発射しました。すると今度は後方から数発の実包射撃を受けました。中隊長清水節郎大尉は演習中止を命令、集合ラッパを吹かせましたが、そのとき再び十数発の実包が撃ち込まれて来たのです。直後に志水菊次郎二等兵1名が行方不明になった事態(のちに確認された)を受け、清水大尉は大隊長一木清直少佐に報告、大隊長は北京城内の聯隊長牟田口廉也大佐から電話で指示を仰ぎ部隊を非常呼集、戦闘準備を整えるとともに、支那側に対し調査・謝罪を要求する交渉を行おうとしました。

 7月8日3時25分、再度にわたる支那側からの射撃を受け、牟田口聯隊長は断固戦闘開始を命令、5時30分には応戦を開始する事になります。(蘆溝橋事件は7月7日に起きた、とする史料は誤りで、日支両軍の交戦は7月8日に始まったのです。)

 日本軍はたちまち堤防一帯を占拠、蘆溝橋城内の支那軍と対峙しました。日本側はこの支那軍に撤退を要求、きかなければ攻撃すると通告しました。このころ北京では特務機関長・松井太久郎大佐、第29軍軍事顧問・桜井徳太郎少佐、第一聯隊付・森田徹中佐らによって衝突回避のために支那側首脳と交渉中で、7月9日4時ちょうどから支那側が蘆溝橋から撤退する協定が成立しました。しかし中国軍は、この合意事項を守らず、小紛争が続発します。そのころ、蒋介石は四個師団を北部へ派遣決定していました。また7月10日の夕刻には中国軍による砲撃が再開されました。

 7月11日18時には松井大佐と現地師団長との間に停戦協定が調印されました。この中には「反日的な青シャツ隊と共産党の活動を抑制するための適切な処置をとること」との項目がありました。支那側は最初の発砲は支那軍ではない、と主張しましたが、日本軍側に遺憾の意を表し、責任者を処分すること等を条件に我が軍は蘆溝橋から撤兵しました。

 この協定と行き違えで近衛首相による「北支派兵に関する政府声明」が発表されました。NHKの「この時歴史は動いた」ではこの時を以て支那事変への拡大が決定的になったとしています。しかし上記の停戦協定により、派兵は関東軍と朝鮮軍のみとなり、内地軍の派兵は見送られることになりました。なお当時の兵力は日本軍5、600人に対して、支那軍は153、000人でした。派兵はやむを得ない事ではなかったのではないでしょうか。

日本軍側兵力5600名戦死11名 負傷36名
支那軍側兵力153000名死傷者100名以上

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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 18:05
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