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【日本史】真実のノモンハン
ノモンハン   数倍のソ連軍を撃破した日本軍



        ノモンハン 〜 大平原での日ソ激戦

                 日本軍は侵入してきた数倍のソ連軍を痛撃して、
                スターリンの野望を打ち砕いた。

■1.独ソのポーランド分割■

         私のとってきた政策は、これで完全に目的を達した。私
        のために火中の栗を拾わされたのは、ヒトラーばかりでは
        ない。チェンバレン(イギリス首相)もダラディエ(フラ
        ンス首相)も、そしていまにルーズベルト(米国大統領)
        も・・・

     スターリンはこういうと、壁面に飾られていた世界地図の前
    に歩み寄って、ポーランドを真っ二つにわける赤線を、力強く
    ぐっと引いた。そして「ジューコフは命令を守っているだろう
    な」といい、さも愉快そうに安楽椅子に深々と身を沈めた。

     1939(昭和14)年9月1日未明、150万のドイツ軍が南北
    からポーランド国境を越えた。3日にはイギリスとフランスが
    ドイツに宣戦布告。第2次大戦の始まりである

     この後、9月17日にはソ連軍がポーランドに東から侵入した。
    8月23日に調印されたばかりの独ソ不可侵条約には、ポーラ
    ンドを半分ずつ占領するという密約が含まれていたのである。

     得意満面なスターリンにただ一つの気懸かりがあったとすれ
    ば、満洲国とモンゴルとの国境ノモンハンに対峙するソ連軍と
    日本軍の停戦が守られるか、という点であった
。ジューコフと
    は7月以来、日本軍と激戦を展開していたソ連軍の指揮官であ
    る。そのジューコフにスターリンは停戦命令を出していた。ド
    イツと組んで欧州に勢力を伸ばすという戦略を成功させるため
    には、日本との全面戦争はどうしても避けなければならなかっ
    たのである。

■2.スターリンの東西戦略■

     モンゴルでは1921(大正11)年にソ連が後押しする人民政府
    が成立していたが、何度も反ソの反乱が起きて、政情は安定し
    なかった。1937年には満洲のモンゴル人や日本軍を招き入れて
    一斉蜂起する計画
が立てられたが、事前にソ連軍に漏れて、閣
    僚や軍部高官、ラマ僧侶を含む2万6千人もの処刑が行われた。

     一方、日本軍の方は日華事変で広大な中国大陸に24個師団
    50万人もの兵力を投入せねばならない事態に追い込まれてお
    り、満洲・朝鮮には11個師団残すのみであった。それに対し
    て、急速に増強しつつある極東ソ連軍は30個師団。さらに
 
  日本軍の戦車200両に対してソ連軍2200両、飛行機も
    560機対2500機と数倍の戦力を国境線上に展開していた。

     この優勢な戦力で日本軍に一大打撃を与えることによって、
    モンゴル共和国での覇権を強化し、満洲国との国境を安定させ
    る事がスターリンの戦略
であったようだ。同時に西側では対立
    しつつあるドイツと英仏を天秤にかけて、漁夫の利を占めよう
    という魂胆だった。

■3.第一次ノモンハン事件

     5月12日、約700のモンゴル兵がハルハ河を渡河し、日
    本軍との小競り合いの末、撃退された。ハルハ河は以前からソ
    連側の地図でも国境とされていたが、1932(昭和7)年に至って、
    ソ連は清国時代の行政区分を根拠に、一方的にハルハ河東岸
    13キロに国境線を変えていたのである。

     5月20日、ソ連機2機が飛来したのを日本機3機が撃墜。
    最初の空中戦である。22日にはノモンハン上空に侵入したソ
    連機5機のうち、3機を撃墜。日本側の被害はなかった。その
    後の6日間でソ連機175機が撃墜され、以後、ソ連側は日本
    機を見たら逃げるようになった。
ソ連のイ15戦闘機は最高速
    度360キロの複葉機で、単葉で460キロと高速軽快な日本
    の97式戦闘機にはまったく敵わなかった。

     5月27日、ソ連軍の工兵隊がハルハ河に頑丈な橋をかけ、
    多くの戦車や砲兵を含む約1千が進出。遭遇した日本軍の約
    200の捜索隊が包囲され、過半数が死傷する損害を受けた。
    しかし、日本側が約1600人の部隊を出して反撃すると、ソ
    連側はハルハ河西岸に退却した。日本側の戦死約30、戦傷約
    70と損害は少なくなかったが、ソ連側は遺棄死体だけで2百、
    破壊された戦車10
と大きな被害に浮き足だって、本格的な戦
    闘を避けたものと見られる。これが第一次ノモンハン事件であっ
    た。

■4.スターリン、再侵攻の命令■

     6月にはモンゴル各地で再度、反革命蜂起があり、約1千名
    が人民革命党や政府機関を襲撃した。スターリンは離反する民
    心を押さえ込むためにも一層の制圧が必要と考えたのだろう。

     また日本に送り込んでいたスパイのゾルゲから「日本はソ連
    と大戦争をやるような準備は進めていない」という情報もあっ
    た。ここで一度、日本軍を叩いておいて、軍事的に押さえ込ん
    でおけば、後顧の憂いなく欧州で始まろうとしている戦争に備
    えることができる。ドイツ、英仏のどちら側につくにしても。

     スターリンは、司令官をジューコフ中将に替え、戦車旅団、
    砲兵連隊、飛行旅団など大幅に戦力を増強して、再度の攻撃を
    命じた。

     6月17日にソ連空軍は満洲国側の数拠点への爆撃を行った。
    ソ連側の主張する国境であるハルハ河東岸からさらに20キロ
    も内部に入った完全な越境攻撃であった。

     ソ連の空襲には大きな損害はなかったが、日本軍はここで黙っ
    ていてはさらに大規模な侵犯を招くと考え、6月27日、ソ連
    のタムスク飛行場を爆撃機30、戦闘機77で急襲。撃墜99
    機、爆破25機、基地の半分を破壊
するという戦果
をあげた。
    日本側の未帰還機は4機であった。しかし、ロシアとの全面戦
    争を懸念する東京の参謀本部は以後の越境空爆を禁止した。

■5.激突■

     ソ連軍は、ふたたび大兵力をハルハ河東岸に展開した。対す
    る日本軍は二手に分かれて、一手はソ連軍を直接迎撃する一方
    で、もう一手は大きく北側を迂回してハルハ河を渡り、背後か
    らソ連軍を襲うという作戦をとった。

     北側に迂回した一手は、7月3日にハルハ河に鉄舟を並べて
    その上に板を敷き、幅2.5m、長さ60mの橋を架けた。渡
    河に成功した部隊に、西岸を守っていたソ連軍が襲いかかった。
    須見大佐はこう語る。

         広漠たる曠野(広野)では遥か地平線上に現出したとき
        から敵戦車は之を望見し得る。二千、千五百、千、射撃し
        ない。唯敵重砲の思うがまま撃たれっ放しだ。八百米に接
        近するのを待って(戦車分隊は)第一発を放った。・・・
        射撃開始は遅かったが、一度射撃開始するや実によく命中
        した。敵の戦車はつぎつぎと擱坐(動けなくなり)炎上す
        る。[1,p229]

     当時のソ連の戦車隊は技量が低く、停止してからでないと射
    撃が出来なかった
。それに対して日本軍は走行射撃の技術を持
    ち、停止している敵戦車を容易に撃破
できた。またソ連戦車は
    火炎瓶を投げるとすぐに燃え上がった。こうして2百両近いソ
    連戦車がたちまち撃破
された。破壊された装甲車からは足首を
    鎖で縛られて逃げないようにされたモンゴル兵の死体が見られ
    た。

     しかし午後にいたって、日本軍も渇きに苦しめられた。気温
    は40度近く、照りつける太陽を避ける日陰もない。あちこち
    では2百両近いソ連戦車が燃え続けている。ハルハ河渡河の時
    に満たした水筒も今は空だ。弾薬も残り少ない。日本軍はつい
    に撤退を始め、5日午前5時に最後の兵が渡り終えると、仮設
    橋を爆破した。

■6.二人の独裁者■

     8月初旬、スターリンは日本軍の頑強な抵抗に危機感を覚え
    ていた。このまま日本との戦線が拡大し、一方でドイツが攻撃
    してきたら、ソ連は二正面で戦わねばならなくなる。日本軍へ
    の大攻勢の準備を急がせる一方で、8月12日にはヒトラーに、
    独ソ間の問題を論議する用意がある旨の電報を打った。「ドイ
    ツは日本に圧力をかけ、ソ連に対して別の態度をとれと説得す
    るつもりはあるのか」と外相を通じて、ドイツに尋ねさせた。

     ドイツ外相リッペントロップは日本に影響力を使うことを約
    束し、「総てはヒトラーが約束する。文句があるなら、日本の
    攻撃は止められない」と脅した。[2,p32]

     しかし、その実、ドイツの方も日本との同盟提案に見切りを
    つけ始めていた。すでに1年以上も前にヒトラーは軍事同盟の
    締結を提案していたが、東京では米内海相らの頑強な反対で一
    向に閣議は纏まらなかった。日本との同盟がダメなら、ソ連と
    結ぶしかない。

     ドイツからの同盟申し入れに対する日本海軍の反対、そして
    ソ連からの侵攻に対する日本陸軍の抵抗が、奇しくも二人の独
    裁者を結びつけたのである。

■7.ソ連軍の総攻撃開始■

     ソ連軍は8月中旬までに兵員5万7千名、戦車498両、装
    甲車385両、航空機515機、火砲・迫撃砲542門の大兵
    力を東岸74キロに展開した。対する日本軍は2万以下であっ
    た。

     8月20日午前5時45分、ソ連軍は日本軍を包囲殲滅せん
    と、総攻撃を開始した。まず数百機の編隊による爆撃、続いて
    2時間45分に渡る砲撃。

     しかし日本軍は頑強に防戦した。北辺のフイ高地はわずか
    759名の日本兵が守っていたが、ソ連軍はここを突破すれば、
    日本軍の後ろに回り込んで包囲できると集中攻撃をかけた。し
    かし激戦の中で第601連隊長スダク少佐は戦死し、敗退。さ
    らに5日間に渡って装甲車旅団、機関銃2個大隊、戦車大隊、
    空挺旅団と次々に3万の兵力を投入したが、それでも占領でき
    なかった。

■8.「わが国論は領土侵犯にたいし怒りを燃やしております。」■

     その頃、モスクワではソ連の外相代理ロゾフスキーがクレム
    リンの応接間で日本大使・東郷茂徳と会って、「停戦について
    の交渉に入りたい」と申し入れていた。東郷は答えた。

         交渉開始には同意します。しかし、わが国論は領土侵犯
        にたいし怒りを燃やしております。そのことを十分にご承
        知おきいただいた上で、交渉にのぞまれることを望みます。

     ロゾフスキーの目が怒りで赤くなった。

         大使閣下、ご存じかと思いますが、20日いらいソ連、
        モンゴル軍は、戦場において明らかに優勢を保ちつつある
        のでありますぞ。

     東郷も負けてはいない。

         辺境の紛争に、日本軍は満洲国軍のために、貴国のよう
        な大兵力を投入しなかったまでです。もし必要なら中国お
        よび朝鮮から大部隊をただちに北上させるでありましょう。
        しかし、それでは日ソ戦争になる。和平交渉は望むところ
        です。いま申し上げたことを十二分にご配慮いただくこと
        を要望したします。[1,p384]

     ソ連側はそれまでにも和平交渉を申し入れてこない日本側の
    態度に、なにか尋常でない気配を感じていた。もしかしたら、
    本気で全面戦争を考えているのではないか。

     同時に、日本が内地、朝鮮、中国から満洲に10個師団を集
    結中という情報がもたらされた。当初の総攻撃を食い止めて時
    間を稼ぎ、10個師団を投入して決戦に出るという戦略か? 
    1個師団だけでもこれだけてこずっているのに、10個師団も
    来られては大変だとスターリンは震え上がった[2,p33]。

     9月16日、日ソの停戦協定が発表された。ソ連軍がポーラ
    ンドになだれ込んだのは、その翌日であった。

■9.ノモンハン事件の真相

     ノモンハン事件はスターリンにとって手痛い失敗であったの
    で、長らく真相は伏せられていた。だからソ連のプロパガンダ
    にのせられた日本のある高校歴史教科書には次のように描かれ
    ている。

         ソ連に対しても、1939年9月にソ連・モンゴル軍と
        国境を巡る軍事衝突をおこして、近代装備をもつソ連に惨
        敗した。

         欄外注
         関東軍は火力・機動力にすぐれたソ連・モンゴル軍に敗
        北し、1万数千名が死傷した。

    「ソ連に対しても」という一節で、日本軍の侵略性を印象づけ、
    さらに近代的兵器もなく精神力だけで兵を戦わせて、1万数千
    名もの犠牲者を出して惨敗したというのである。

     しかし、ソ連崩壊によって当時の資料が公開され、事実が明
    らかになってきた。それによってノモンハン事件を通じての損
    害を比較すると以下のようになる。[2,p51]

        兵員死傷  日本 17,405名
               ソ連 25,655名以上

        航空機損害 日本    179機
                ソ連  1,673機
            
        戦車損害  日本     29台
                ソ連    800台以上

    「惨敗」したのはどちらの方か、これらの数字が雄弁に物語っ
    ている。特に航空機や戦車の損害を比較すれば、ソ連軍の近代
    兵器のレベルがどの程度かは、言わずもがなであろう。日本軍
    は少数ながら、優れた近代兵器と旺盛な戦闘精神で、数倍のソ
    連軍を敵に回してよく国境を守ったのである。

     ノモンハン事件はソ連側の侵略によって始まり、これを日本
    軍が痛撃したことで停戦となった。この国境の平和が再び破ら
    れるのは、ドイツが降伏して欧州戦線が片づいた後、ソ連軍が
    日ソ中立条約を破って、再び満洲になだれ込んできた時であっ
    た。[a]


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http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfree&nid=283928



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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 21:33
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