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蘆溝橋事件 その2
 最初の発砲はどちらから行われたか?というのは永年の研究対象とされていましたが、今日では「最初の射撃は宗哲元指揮下の国府第29軍に潜入していた中共側である」とする説が有力になっています。また北京に潜入し劉少奇にそそのかされた北平大学、精華大学の学生を中心とした学生ゲリラがそれを支援していた、とも言われています。
 中共は7月8日早朝、述安の本部から全国へ「蘆溝橋で日本は攻撃を開始しました。全国民衆の愛国運動を結集して侵略日本に立ち向かうべし」とする電報を発信しています。この打電時刻は日支両軍司令部でさえ事態の真相をつかんでいない時で、この時点でこのような電報が打電されたことは、中共が影でこの事件を画策していたことを十分推察されるものです。
 またモスクワのコミンテルン本部も、
 ,△まで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならない。 △修里燭瓩砲呂△蕕罎觴蠱覆鰺用し
 L噂姐作によって彼らに行動を起こさせ、国民政府を戦争開始にたち到らしめる。
といった指令を発しています。

 中共当局はこれらの指令に基づき幾度も停戦協定を破りました。その後日本側から働きかけた事変解決の和平交渉をすべて流産させたのです。
 7月11日の停戦協定成立後の13日夜には再び射撃を交えることとなりました。(日支両陣営の中間地点で拳銃や爆竹を鳴らすものが居ました。中共の策謀の可能性が極めて高いと考えられています)。また支那側は兵力の撤退を行わず、却って兵力を増大して、12日の天津発同盟によれば、支那中央軍の北上は活発を極め、武器弾薬の輸送も戦時状態を呈しつつありました。
 7月17日 蒋介石は、蘆溝橋事件は日本側の計画的挑戦行為であり「最後の関頭」の境界である、とする重大な決意を声明します。これを受けた日本は、対日全面戦争を決意したものと判断しました。7月25日、天津と北京の中間で、軍用電線を修理中の我が部隊が、張自忠の部隊から攻撃を受けて多数の死傷者を出す郎坊事件が発生します。蘆溝橋付近における支那軍の挑発的態度に変化なく、北平や南苑付近でも各種小事件が発生し、26日には広安門城壁上からトラックに分乗した我が部隊を射撃する広安門事件が起こりました。さらには29日安全であるはずの通州で、支那の保安隊が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260人が中国式の残酷な方法で惨殺される通州事件が発生しました。
 ついに支那派遣軍は軍事行動の意見具申を中央に打電、不拡大主義者・作戦部長石原莞爾も事ここに到っては決断せざるを得ず、居留民・権益保護のための動員派兵が決定されたのです。
 昭和12年、事変勃発時は局地解決を意図していたこともあり「北支事変」と称しました。その後中支に拡大するに従い、政府は「支那事変」と改称するに至りました。

 昭和12年7月11日 政府は今次事件を「北支事変」と命名
 昭和12年9月 2日 閣議で北支事変を「支那事変」と改称決定

 「日華事変」というのは後の俗称であって、「日中戦争」などに至っては歴史上存在しない架空の出来事なのです。日本は支那に対して正式に宣戦を布告することはなく(正確にはしないまま内戦に引きずりこまれた)、蒋介石政権も対日宣戦は行いませんでした。(蒋介石が日独伊に宣戦を布告したのは大東亜戦争勃発後の昭和16年12月9日です。)
 何故なら日支両国ともに全面戦争になることを避けて、常に解決の糸口を探していたからです。 逆に、日支両国が全面戦争に発展し、漁夫の利を収める事ができる勢力が本当の下手人であると言えるでしょう。その勢力とは、ソ連コミンテルンを背後に持つ共産党ゲリラ以外に存在しません。
 昭和13年12月 閣議決定された「日支新関係調整方針」に基づき、12月22日、いわゆる近衛声明と呼ばれる東亜新秩序建設の声明が発表されました。
 これは支那事変の目的を明らかにした基本方針で、支那事変の本質を明確に現したものです。

  〇抛瓩亘州国を承認し、日本は支那の独立主権を尊重する
 ◆領土の割譲を求めず、賠償を要求しない(在華居留民の権利利益の損害は除く)
  治外法権を日本は放棄し、租界地返却を考慮 
 ぁ)俵γ楼莪奮阿里垢戮討涼楼茲らの2年以内の撤兵
 ァ‘支防共協定の締結、日本軍の防共駐屯
 Α‖茖街颪慮益を損なわず=日本のみが経済開発を独占しない

 日本はあくまで事変として処理し、領土的野心も賠償も求めていませんでした。米英ソの力を背景に、抗日・遠交近攻政策をとる蒋介石に反省を促すことにありました。事変当初は日支の間には外交関係は断絶していませんでした。また両国間の条約は依然効力を保持していました。従って降伏してきた支那兵を釈放することもありましたし、日本在住の支那人は敵国人として収容されることもありませんでした。

 内閣に第4委員会を設置し、宣戦布告について利害研究が行われ、大本営が設置されるほどの「事実上の全面戦争」であったのは紛れもない事実ではありますが、表面上の事象のみみて「日中戦争」などと称するは歴史の歪曲ではないでしょうか。
 なぜ「戦争」ではなく「事変」なのでしょうか?
 以下の点に留意して支那事変の本質を理解する必要があると思います。

  蒋介石に抗日・悔日政策を改めさせ、現地日本人に対する非道に反省を求めるのが目的であった。
 ◆ ̄儿颪砲茲覦な卆鐐茲覆匹醗曚覆蝓日本に領土的野心などは全くなかった。
  事変後も依然として条約関係は効力を保持し、両国は事変解決の交渉を継続していた。
 ぁ\鐐茲忙ちこまないことで、第3国の権益を制限しないように配慮した。
 ァ\訐鑄杞陲里覆ぞ豺隋以下の制約が発生したが敢えて受忍した。
    1) 港の税関の接収ができず、郵政・金融など占領地行政に不便をきたす
    2) 親日派の支那人指導者が日本の決意に疑念を抱くため、新政権樹立に熱意が欠ける
    3) 作戦行動に制約を受け、不徹底となる
    4) 「九ヶ国条約」(大正11年)違反の抗議を各国から受けることになる

 支那事変を「日中戦争」などと詐称する事こそ、「歴史のごまかし」であると考えられます。


宛平県城、日本軍が無血占領 1937年7月29日
宛平県城、1937年7月29日に撮影


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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 10:57
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