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【国内】在日は日本人と暮らし、戦後復興も一緒に支えてきた。そろそろ信頼して参政権を与えてほしい
【在日】 今でも遠い選挙権〜日本人と暮らし、戦後復興も一緒に支えてきた。そろそろ信頼して参政権を与えてほしい[07/27]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1185552548/

1 名前:Mimirφφ ★[] 投稿日:2007/07/28(土) 01:09:08 ID:???
私もひとこと07参院選 選挙の「外」からの目

今でも遠い選挙権

 大学生にまでなって「自分は何がしたいんだろう」と思うことがある。
中学や高校くらいの、早い段階から本人が興味のある分野を伸ばして、
専門的な教育を受けられるシステムがあったらいいな。

 でも、在日3世の僕には選挙権が無い。両親も自分も名古屋育ち。
日常生活は日本語。日本人とほとんど同じ生活をしている。
在日は今では4世までいて、ずっと日本人と一緒に暮らしてきた。
戦後の復興を一緒に支えてきたという面もあると思うし、そろそろ信頼して参政権を与えてほしい。

 参院選が始まって党首の主張を聞いたり、町で選挙カーを見たりするけど、「選挙権がない」と思うと興味もなくなってしまう。

 今は疎外感みたいなものがある。だけど、就職して税金を納める立場になったら、くやしい思いがわいてくると思う。

金原太志さん 大学生

ソース:朝日新聞紙面からテキスト化(ID:74pkWH0dさん 多謝)
朝日新聞

参政権は国民の権利です。


>在日は今では4世までいて、ずっと日本人と一緒に暮らしてきた。

生まれも育ちも日本であろうと、国籍が違う以上外国人です。
選挙権が欲しければ、本国へ帰るか帰化するべき。
反日工作員が大量に帰化されても困るので、さっさと帰って下さい。



>就職して税金を納める立場になったら、くやしい思いがわいてくると思う。

いつになったら、納税と参政権は別だと理解できるのでしょうか?
税金というのは公共サービスに対する対価であって、参政権とは関係ありません。
参政権とは、日本の未来を決定する議会における代弁人を選ぶ権利であって、これは日本国の未来に責任を持つ事ができる人間、すなわち日本国臣民に与えられた権利なのです。
ですから、外国人がいくら言っても無理なのです。
ましてや日本国を植民地にしようと企むような反日外国人には、到底与えられるものではありません。
(私は帰化しても三代くらいは与えるべきではないと思うし、被選挙権はもっと厳しくするべきだと思う)



>戦後の復興を一緒に支えてきたという面もあると思うし、そろそろ信頼して参政権を与えて
>ほしい。


寝ぼけるな、カス。
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。 我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。 他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。 この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』 『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。
苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。 座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。 あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。

蔡焜燦著『台湾人と日本精神』

はだしのゲン


参考:なぜ朝鮮人が差別されるようになったか

在朝鮮人連盟

 終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた
 銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷は臺湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いてゐた 戦勝國民は治外法権だったのである
 だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、其処へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。日本人は買へなかったが。
 斯うした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商賣を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(流石に銃撃戦は挑まなかった模様)
 當時は物不足で、賣る方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから 其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い 警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった(録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした)
 東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根− 中川、江戸川、利根川流域の牛は皆ゐなくなった
 當時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ牽いて行って屠殺した

 牛はモウと言って泣いたので皆氣付いたが、銃砲刀剣で武装してゐるので追ふ訳には行かなかった 永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった
 斯うして利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘下流へ賣りに來たのだらう
 斯くて南關東から、牛はゐなくなった
 家畜相手ならまだしも、人間に對しても、關東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた
 川崎、濱松、大阪、神戸などが酷かった
 其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集團暴行・傷害事件がある
 翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鐵道員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追ひ立てた
 其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座ってゐるのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした

 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した
 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう
 直後に總理大臣に成る程の大物でも如斯況や庶民に於てをや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ
 其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如きに何が出來よう まこと、敗戦はかなしからずや
 堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した
 最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った
 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た
 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである
 だから、外國人差別用語な筈は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか
 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い
 「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない
 近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、テレヴィにでも新聞にでも出て歴史の眞實を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 眞面目に報道する氣は無いのかの


・大阿仁村事件(1945年10月22日)
・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
・富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
・長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
・富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
・坂町事件(1946年9月22日)
・新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日〜29日)
・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
・尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
・阪神教育事件(1948年4月23日〜25日)
・評定河原事件(1948年10月11日〜12日)
・宇部事件(1948年12月9日)
・益田事件(1949年1月25日)
・枝川事件(1949年4月6〜13日)
・高田ドブロク事件(1949年4月7日〜11日)
・本郷村事件(1949年6月2日〜11日)
・下関事件(1949年8月20日)
・台東会館事件(1950年3月20日)
・連島町事件(1950年8月15日)
・第二神戸事件(1950年11月20〜27日)
・四日市事件(1951年1月23日)
・王子事件(1951年3月7日)
・神奈川事件(1951年6月13日)
・下里村役場事件(1951年10月22日)
・福岡事件(1951年11月21日)
・東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)
・半田・一宮事件(1951年12月3日〜11日)
・軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)
・日野事件(1951年12月18日)
・木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日〜23日)
・姫路事件(1952年2月28日)
・八坂神社事件(1952年3月1日)
・宇治事件(1952年3月13日)
・多奈川町事件(1952年3月26日〜30日)
・田川事件(1952年4月19日)
・岡山事件(1952年4月24日〜5月30日)
・血のメーデー事件(1952年5月1日)
・上郡事件(1952年5月8日)
・大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日〜25日、11月9日〜12日)
・広島地裁事件(1952年5月13日)
・高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
・奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
・万来町事件(1952年5月31日〜6月5日)
・島津三条工場事件(1952年6月10日)
・醒ヶ井村事件(1952年6月13日)
・葺合・長田事件(1952年6月24日)
・吹田・枚方事件(1952年6月24日〜25日)
・新宿駅事件(1952年6月25日)
・大須事件(1952年7月7日)
・舞鶴事件(1952年7月8日)
・五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日〜26日)
http://haniwa82.hp.infoseek.co.jp/meigen/crime.html


田岡一雄山口組組長の回顧録「山口組三代目 田岡一雄自伝」より転載


一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。
飛行服の男たちだった・・・(中略)
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。
こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。


今までありもしない事で日本に謝罪と賠償を求めた事、そして日本人に対して個人の犯罪に至るまで、国を挙げて謝罪と賠償をしない限り友好なんて有り得ない、というのが私のスタンスです。
はっきり言うと、未来永劫そんな事はないわけですが。



在日

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author:玉置 麗華, category:[国内]朝日新聞, 15:30
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