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【日本史】フィリピン少年が見たカミカゼ
ある少年が見たカミカゼ

フィリピン少年が見たカミカゼ
   
                     なぜカミカゼの記念碑がフィリピンの地に
                    建てられたのか。               



 


 


 


■1.フィリピンに建てられたカミカゼ記念碑■




     フィリピンの首都マニラをしばらく北上して、市街地から出
    ると広大な田園地帯が広がっている。南国の豊かな日差しを浴
    びて、元気のよい緑が広大な平地から遠くの山々を覆っている。
    南九州から沖縄、台湾の景色と明らかな連続性を感じさせる。




     さらに北上すると、広大な平野の中の道路脇に、ポツンと小
    さな霊園のような敷地がある。四角い壁に囲われた中に横に長
    い石碑が立っている。筆者が訪れた時には、車の交通もまばら
    で、あたりは静かだった。



     これがフィリピン人ダニエル・ディソンが奔走してフィリピ
    ン政府により建立されたカミカゼ記念碑である。このあたりは
    先の大戦中、日本軍が使用していたマバラカット飛行場であり、
    ここから最初の神風特別攻撃隊が飛び立った。記念碑には、ディ
    ソンが書いた次のような碑文が記されている。



         第2次大戦終結までに、カミカゼはアメリカ軍艦を総計
        322隻撃沈または大破、9千人以上の海軍軍人を戦死さ
        せ、一方、5千人のカミカゼ隊員の内4600人が自殺攻
        撃にて戦死した。カミカゼは、世界史上比較しうるものの
        ない全く大胆不敵なものであった。



         歴史的調査が明らかにしたところによれば、カミカゼを
        支えた信条とは、世界のすべての民族に対する機会の均等
        と親睦が、自らの死によって実現されることを心底から願っ
        て自らの身を捧げたカミカゼ志願者達の思いである。
        [1,p237]



     ディソンが大戦中に日本軍人と出会ったのは11歳の時であっ
    た。一人のフィリピン少年はどのような思いで、このような記
    念碑を造るに至ったのであろうか。



■2.12月の深い青色の空に白く輝く機体■




     1941(昭和16)年12月8日、午後1時頃、昼食を終えたディ
    ソン少年が立ち上がった所で、突然地面が揺れ、窓がガタガタ
    と鳴った。祖父が「地震だ、地震だ」と叫んだ。



     その後に、ゴーという低い轟音がして、続いて、ポップコー
    ンが破裂するような音が空から降ってきた。窓に駆け寄って空
    を見上げると、小さな破裂した煙がいくつも見え、そのはるか
    上に爆撃機の編隊が二つ見えた。初めて見る日本軍だった。地
    震だと思ったのは、その爆撃機が落とした爆弾だった。近くに
    あるクラーク飛行場は、アメリカ軍の極東での主力基地である。
    そこを日本軍が急襲したのだった。



     祖父は「何故日本がこんなところを攻撃できるんだ。日本は
    ずっと遠くにあるはずじゃないか」と叫んでいた。祖父は新聞
    で日中戦争の事を知っており、また近くに住む中国人が日本人
    は残虐だと触れ回っていたので、日本軍をとても恐れていた。



         もちろん私は日本軍をとても恐れてはいました。しかし、
        その時心の中では密かに日本軍のことを賞賛していました。
        何しろ決して敗れないはずの白人を、私達と同じアジア人
        の日本人がやっつけているのですから。



         私達は皆、日本の爆撃機の数を数えていました。私はそ
        の光景を忘れません。12月の深い青色の空に機体が白く
        美しく見えました。[1,p38]


 




■3.日本兵から貰った乾パンと金平糖■



    
     年が明けて1月1日、日本軍がディソンの住むアンヘレスの
    町にもやってきた。アメリカ軍とその指揮下にあるフィリピン
    兵たちは、散発的な抵抗をしながらも、南に逃げていった。




     ディソンの一家は戦闘を逃れて、深い谷間に数日隠れていた
    が、ようやく静かになったので、町に戻ってきた。町には大勢
    の日本兵がいた。ディソン少年の伯父はマニラで日本人と働い
    たことがあるので、「『アリガト』と言え」と、教えてくれた。
    そこで、ディソンらが「アリガト! アリガト!」と言うと、
    日本兵はみな笑い出した。何かひどい扱いを受けるのではない
    かと心配していたディソンは、少しほっとした。




     日本兵たちは、ポケットから何かを出して、子供達に渡した。
    ディソン少年も一つ貰ったが、それは布でできた小さな袋で口
    をひもで縛るようになっていた。巾着である。明けてみると、
    小さな四角いビスケット(乾パン)と砂糖のボール(金平糖)
    が入っていた。



     それが、ディソンが日本兵からもらった最初のものだった。


 



   
■4.日本軍将兵とフィリピンの子供達■



     やがてディソン少年は、日本兵たちとバスケットボールをし
    たり、また知り合いが日本軍の炊事場で働くようになると、そ
    の手伝いをするようになった。



     ヤマカワ中尉という25歳くらいの人が、ディソンを自分の
    弟に似ていると言って、可愛がってくれた。よくディソンの手
    をとって、一緒に散歩をした。




     ある時、ヤマカワ中尉はディソンが描いた絵を見て、「うー
    ん、ベリーグッドじゃないか」と言った。そして時々、白い紙
    を鉛筆をくれて、自分や部下の絵を描かせた。




     妻子を故郷においてフィリピンに駐屯している日本軍将兵た
    ちにとって、フィリピンの子供達は心を和ませてくれる存在だっ
    たようだ。



     後にディソンの妻になるエンリケッタも、アンヘレスのすぐ
    南のポラックという町に住んでいて、似たような経験をしてい
    る。近くに日本軍の飛行場があり、毎日そこに行って、雑草を
    引き抜く仕事をしては1ペソ貰う。やがて背の低いがっりとし
    た体格の日本兵が、エンリケッタによくキャンディーやクッキ
    ーをくれるようになった。




     エンリケッタは飛行士たちとも仲良しになった。飛行士の一
    人はエンリケッタを抱き上げて、戦闘機の翼の上に乗せ、その
    特設ステージで、エンリケッタは得意の歌と踊りを披露した。



     司令官のマエダさんはそんな光景をいつも見ているだけだっ
    たが、ある時、エンリケッタが熱を出して二日も基地に行かな
    いでいると、トラックで家まで見舞いに来てくれた。そして袋
    一杯のキャンディーとクッキーを置いていってくれた。


 



   
■5.鉢巻きをした日本軍の飛行士たち■




     しかし、1944(昭和19)年になると、戦局が悪化し、食糧事
    情も悪くなっていった。共産ゲリラや親米派ゲリラの活動が活
    発になり、親日派の市長や警察署長、そして日本兵の暗殺が行
    われるようになった。日本軍そのものが幹線道路で待ち伏せ攻
    撃を受けるようになり、日本の将兵は疑い深くなっていった。
    ゲリラを支援した人間や、ゲリラとの疑いをかけられた人々が
    処刑された。




     9月21日、アメリカ軍の飛行機がアンヘレス周辺にあるす
    べての飛行場を爆撃した。それからは毎日、空襲があった。




     その頃から、アンヘレスで鉢巻きをした日本軍の飛行士たち
    を見かけるようになった。日本の兵隊たちは、彼らと街で会う
    と、お辞儀をしていた。




     ある晩、この飛行士たちが泊まっている家からピアノの伴奏
    が始まり、いろいろな軍歌が聞こえてきた。悲しい調子の曲も
    流れた。その一つが「海ゆかば」だった。そして翌朝、彼らは
    飛び立つと、二度と帰ってこないのだった。




     こうした事が繰り返されたが、ディソン少年を含めフィリピ
    ン人たちは、彼らがどういうことをしているのか、知らなかっ
    た。



   
■6.運命を変えた一冊の古本■




     1945(昭和20)年1月28日、アメリカ軍がアンヘレスを解
    放した。アンヘレス周辺には、敗走し、部隊からはぐれた日本
    兵たちがうろうろしていたが、ゲリラや米軍などに容赦なく殺
    されていった。




     2ヶ月もするとアンヘレスでの生活ももとに戻った。ディソ
    ンはしばらくアメリカ軍の身の回りをする仕事をしていたが、
    6月には高等学校が再開されたので、仕事を辞めて、学校に通
    い始めた。




     1946年7月4日、フィリピンは独立したが、経済はアメリカ
    人に牛耳られ、独立とは名ばかりのものだった。共産ゲリラが
    政府を攻撃し、街を爆弾などで襲う事件が頻発した。



     ディソンはフィリピン大学の美術学部の奨学生に選ばれた。
    美術の勉強の傍らで、歴史にも興味を持つようになった。そし
    て、フィリピンの歴史を掘り下げていくと、全く教えられてい
    なかった事をいくつも発見した。



     たとえば、フィリピンは16世紀にスペインによって植民地
    化される前に西洋文明とは違った文明を発達させていた。その
    事を知っただけで、フィリピン人としての誇りを感じた。アメ
    リカの植民地時代には、常にアメリカ人の下にいて、その顔色
    をうかがっており、かつてフィリピン人の誇りを持ったことは
    なかった。



     1963年に大学を卒業すると、画家になるための修行をしなが
    ら、伯父と伯母が始めた会社に勤め始めた。



     1965年、35歳の時、ディソンの兄がマニラの路上の古本屋
    で、一冊の古本を買った。それがディソンの運命を変えた。
   



■7.「何かをしなければいけない」■




     その本は『ディバイン・ウインド(神風)』というタイトル
    のアメリカで出版されたポケット版の本だった。猪口力平(元
    大佐)・中島正(元少佐)著『神風特別攻撃隊』の英訳版であ
    る。



     この本を兄から借りて読んでみて、ディソンは衝撃を受けた。
    クラーク飛行場やアンヘレス、そしてその隣町でカミカゼが生
    まれたマバラカットについて書かれていた。少年の時に見たあ
    の鉢巻きをした飛行士達がカミカゼだったのである。




         読み進むに従って、私はこの本により深く結びつき、カ
        ミカゼの飛行士達に驚き、心が動かされていきました。私
        はカミカゼの意味について深く知っていきました。

         そして、本の最後で、カミカゼの飛行士達の遺書に行き
        当たりました。




         これらの遺書を読むと、私はカミカゼのことを記録し残
        していくために何かをしなければいけないと強く思うよう
        になったのでした。[1,p218]
   



■8.カミカゼの記念碑建立■




     ディソンは、著者の猪口氏や中島氏と手紙をやりとりして、
    カミカゼが1944年10月20日にマバラカットで誕生したこと
    を確認した。



     息子達の教育費で生活の方は苦しかったが、そんな中でディ
    ソンは政府に、カミカゼが初出撃した飛行場の跡地に記念碑を
    建立するよう働きかけた。妻のエンリケッタも学校の教師をし
    ながら、ディソンの活動を支えてくれた。幼いころ、日本の飛
    行士達と遊んだ記憶が、無意識のうちにそうさせたのかも知れ
    ない。



     しかし、状況は最悪だった。ディソンは体調を崩し、1971年
    には会社を辞めた。翌年、マルコス大統領がフィリピン全土に
    戒厳令を敷き、アンヘレスも共産ゲリラの活動で治安は最悪だっ
    た。そんな混乱の中で、もし政府関係者が反日の人間だったら、
    ディソンも逮捕されるかもしれない。



     1973年、ようやくチャンスがやってきた。マルコス大統領が
    日本からの投資を呼び込もうと、マニラの南郊2時間の場所に
    日本将兵の慰霊碑を建てる事を許可したのだ。ディソンはマル
    コス政権の観光局長に会って、カミカゼの記念碑を建てる事の
    方がずっと重要であることを説いた。局長は賛同した。一週間
    も経たないうちに観光局のジャーナリストが取材にやってきて、
    ディソンがカミカゼについて話した内容を全国版の新聞に掲載
    してくれた。



     こうして1974年にかつてのマバラカット東飛行場の跡地に
    「第2次大戦に於いて日本神風特別攻撃隊機が最初に飛び立っ
    た飛行場」という碑文が入った記念碑が建立された。



     観光局のジャーナリストが記念碑完成を報道すると、アメリ
    カやカナダ、シンガポール、スペインなどから記者が取材にやっ
    てきて、カミカゼ記念碑を世界中に報道した。それで世界各地
    から観光客やジャーナリストがやってくるようになった。
   


 



■9.「アジア人が到達しうる究極のもの」■




     ディソンは、今のフィリピン人は、アメリカと中国、ヨーロッ
    パと日本が混じり合ったもので、明確なアイデンティティがな
    い事がとても悲しい、と言う。

         私の家にある小さなカミカゼ博物館には、定期的に高校
        生や大学生が訪問しますが、・・・私は、カミカゼ精神と
        はアジア人が到達しうる究極のものであることを、彼らに
        教えているのです。



         カミカゼの精神は、自らのアイデンティティ、自らの名
        誉や文化を守るために、自らの命を引き換えにするところ
        まで、人は到達できることが出来るのだ、ということを示
        しているのです。



         そして、フィリピン人は彼らのような行為をまだしたこ
        とがない、と学生達に教えているのです。[1,p305]



     カミカゼの精神が日本人としてのアイデンティティにどう関
    わっているのか、それを理解することは、現代の日本人には難
    しくなってしまった。しかし、同じく特攻隊員の手紙や遺書を
    調べたイワン・モリスの次の言葉が良いヒントになるだろう。
    [a]




         むしろ彼らの言葉は、日本人として生まれてこのかた受
        けた恩恵にたいして、報恩をしなければならないという気
        持ちを表現しているのではないだろうか。恩恵を受けてき
        た、今も受けているという気持ちと、いざという時に必要
        とあればどのような犠牲を払っても、その恩に報いたいと
        いう気持ちが、平戦時を問わず何世紀にもわたって、日本
        人のモラルの力強い底流をなしていたと思うのである。



        http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm         


 


 



ポルコ



enjoy korea
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfree&nid=380364

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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 22:55
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