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盗まれた楽園〜ハワイ
 イギリスから独立を果たした移民の国、アメリカ。
 アメリカの開拓は、東海岸より始まり、各地に住んでいたインディアンを虐殺し、土地を略奪し、西海岸へ到達しました。
 西海岸へ到達したアメリカは、世界制覇を目指し太平洋を勢力下に置こうとします。
 その第一目標として狙いをつけられたのがハワイでした。



■カラカウア王の密かな夢

 明治14(1881)年3月、ハワイ王国のカラカウワ王が世界一周旅行の途上で、横浜港に到着しました。日本の海軍軍楽隊はハワイの国歌「ハワイの国民(ハワイ・ボノイ)」を演奏して出迎えました。王は思いがけない日本側のもてなしと、異国の地で自身が作詞した国歌を聴かされた事に感じ入って、涙を流したといいます。
 翌日、特別列車で横浜駅から新橋駅に着き、当時の皇居であった赤坂離宮に向かいます。横浜港も鉄道も日本人だけで運用されていて、「どこにもハオール(白人)を見なかった」事に強い感銘を受けました。
 当時のハワイ王国は、欧米から来た白人が国土の75%以上を保有し、また政府の要職も独占していました。土地所有の概念のなかったハワイで、ただのような値段で土地を買い占められ、また独立維持のために近代化を推し進める上でも、欧米人を政府要職につけるしかありませんでした。しかも欧米人の持ち込んだ淋病、天然痘などに免疫のなかったハワイ人は百年間で人口が30万人から5万人に激減するという危機に瀕していました。
 日本と同盟を結んで、アジア・太平洋地域に「同種族」の連合を形成し、白人の外来勢力の拡大を阻止して、独立を全うしようというのが、カラカウア王の密かな夢でした。

■カラカウア王と明治天皇

 3月10日夜、王はアメリカ人の随行員らを出し抜き、日本人通訳のみを連れて密かに赤坂離宮を訪れ、明治天皇との会見を乞いました。天皇側は夜中の訪問を不審に思いましたが、とりあえず会見することとしました。
 王は日本の伝統文化と近年の国家的隆盛を賞賛した後、ハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、日本の協力を仰ぎました。第一に日本人移民の実現。ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補おうというものでした。第二に、やがて王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族・山階宮定麿親王との婚約の申し入れ。第三に、ハワイと日本の友好によって、将来の太平洋の発展に寄与したい、という三点でした。
 カラカウア王の行動に、ハワイの白人指導者層とアメリカ政府は警戒の念を抱きました。国務長官ジェームズ・ブレインは、ハワイ駐在米国大使ジェームズ・コナリーに次のような見解を示していました。
 過去30年間にわたって、アメリカは、合法的に北太平洋における支配的影響力を獲得してきたので、我々に敵対する勢力の侵入によって、我々の影響力が減少するのを認めるわけにはいかない。
 ハワイと日本の皇室が婚姻関係を結ぶことは、米国の敵となる事を意味します。ペリーの砲艦外交に屈して開国し、明治維新後わずか14年の日本には米国と対抗する力はありません。翌年、明治天皇はカラカウア王に特使を派遣して、婚姻の議は謝絶しました。「日本の皇室にはそのような前例がないこと」「米国の勢力圏に立ち入るのを好ましくないと判断」したことを理由に挙げました。
 しかし、移民については、ハワイ側から再三の要請があり、1885年には官約移民が実現した。ホノルルに到着した日本移民のための歓迎会には、王自身が参加し、日本酒が振る舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会が催された。日系移民は続き、20世紀初頭には日系人人口が全体の4割と民族別では最大の割合を占めるようになりました。

■ハワイ王朝の最後

 カラカウア王の動きを封ずるべく、米人勢力は1887年6月30日、13人委員会なる代表団が新憲法を起草し、白人武装集団「ホノルル・ライフルズ」の圧力のもとに、24時間以内に承認の署名を行うようカラカウア王につきつけました。これは王の政治的行為はすべて議会の承認を必要とし、さらにその議会選挙では、土地所有を有権者の条件としてハワイの人口の約3分の2、すなわち多くのハワイ人とほとんどすべてのアジア人を選挙から排除するものでした。銃剣のもとで、カラカウア王が署名させられたこの憲法は「銃剣憲法」と呼ばれました。
 1891年1月、病死したカラカウア王の後を継いで、実妹のリリウオカラニ女王が即位しました。女王は1893年1月14日、ハワイ人にも選挙権を与える新憲法の発布をしようとし、翌日にはイオラニ宮殿前では数千人のハワイ人が集まって、女王支持のデモを展開しました。
 白人側はこれを機に一気に王制打倒に動き出します。米国公使スティーブンスは、16日に「血に飢えた、そして淫乱な女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」と訴え、「米国人市民の生命と財産を守るために」と、ホノルル港に停泊中の米軍艦「ボストン」から、海兵隊員160余名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧しました。軍艦ボストンの主砲はイオラニ宮殿に照準を合わせました。
 白人有力者たちは臨時政府を組織し、女王は流血を避けるために王権を放棄しました。2月1日、スティーブン公使は臨時政府をアメリカの保護下に置くことを承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚されました。そして「ハワイの実(西洋梨)は完熟し、今こそアメリカがそれをもぎ取るのに、黄金の時が訪れている」とフォスター国務長官に、ハワイ併合を訴えました。

■日本軍艦、現る

 この混乱の中で、米国政府をも驚かす事件が起きます。アジアの小国日本が軍艦を差し向けてきたのです。2月23日、巡洋艦「浪速」、さらに5日遅れて「金剛」が相継いでホノルル港に入り、「ボストン」の隣に投錨しました。「浪速」の艦長は東郷平八郎、後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督の若き日の姿です。
 カラカウア王の要請した日本からの移民は、1885(明治18)年から始まり、この年までに2万5千人に上っていました。その日本人移民の「生命と財産を守るため」というのが、表向きの理由だったのですが、女王側からの緊急要請があったとも言われています。
 入港した「浪速」は、臨時政府には挨拶も行いませんでした。女王の側近が東郷艦長と長時間の密議を持ったという噂も流れました。
 地元紙は日本と英国が組んで米国と開戦する可能性まで論じました。
 日本の2艦は米人たちに無言の圧力を与えたのでしょう。
 「浪速」は3ヶ月ハワイに留まった後、いったん帰国し、一年後に再び姿を現しました。臨時政府は「建国一周年」を祝う21発の礼砲を要請しましたが、東郷艦長は「その理由を認めず」と突っぱねました。ホノルル軍港の各国軍艦はこれにならい、クーデター一周年は「ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」と伝えられています。
 ハワイ人の間では日本の軍艦が味方してくれたという話が語り継がれ、子どもにトーゴーと名づけたり、ある地域では「ナニワ」が「ありがとう」の意味で使われたりしたといいます。

■盗まれた楽園

 臨時政府側にとって誤算だったのは、クーデター直後の3月4日に就任したクリーブランド大統領が、ハリソン前大統領とは違って、ハワイ併合に消極的だったことでした。クリーブランド大統領が派遣した特使は米国旗を降ろし、米兵たちに自艦に戻るように命じ、さらにこの革命はスティーブンス公使と現地白人有力者たちの画策であったと本国に報告しました。
 大統領は議会で、「ハワイは誰もが同意も希望もしなかったのに、アメリカの軍事力によってアメリカの所有物になってしまった。アメリカによるホノルルの軍事占領はまったく正当化できるものではない」と主張し、「アメリカの名誉と正義のためにも、あらゆる努力を真剣にはらって償いをなすべきである」と、王政復古への援助を示唆しました。
 臨時政府側は、ハワイ併合までには時間がかかると判断して、アメリカ公使と米軍がとった行動は臨時政府側の責任ではなく、またクリーブランド政権の姿勢はハワイへの内政干渉だとして、突っぱねました。そして1894年7月4日、アメリカの独立記念日をわざわざ選んで、新憲法の発布を行い、正式なハワイ共和国として出発しました。新憲法では選挙権は高額の財産を持ち、王政復古に加担しないという宣誓を行い、英語かハワイ語を読み書きできることという条件をつけたので、大多数のハワイ人と日系移民を含むほとんどのアジア人は周到に政治権力から遠ざけられていました。
 翌95年1月、大勢のハワイ人王統派が武装蜂起しましたが、2週間で平定されてしまいます。リリウオカラニは参加していませんでしたが、武器弾薬が庭に埋められていたとして反逆罪で逮捕されました。1年以上の幽閉の後、共和国への忠誠を誓い、一般市民として静かに余生を送るという誓約書に署名しました。
 「アロハ・オエ」はリリウオカラニの作曲です。人間、自然、神との一体感を甘く物悲しい旋律で歌ったこの名曲は、最後の女王による盗まれた楽園への挽歌になってしまいました。

■「モンゴル化(黄色人種化)」の脅威

 こうした白人特権階層の動きに対して、人口の4割を占める日系人と、日本政府はどのような態度をとったのでしょうか?
 カラカウア王の時に結ばれた日本・ハワイ渡航条約で約束されていた日本人移民の参政権が、銃剣拳法によって否定されてしまいましたので、日系人たちはその参政権回復要求に絞った活動をしていました。日本政府も、アメリカを刺激しない範囲で、日系人が白人と同等の参政権その他の地位を獲得することを目指していました。
 軍艦「浪速」の派遣も、その一環でした。
 しかし、ハワイの白人支配者層は、日本側の対応を野心の証として見ます。ハワイが日系移民によって「モンゴル化(黄色人種化)」するという脅しは、アメリカに併合を迫る上での格好のテコと考えらていました。
 そして渡航条約によってやってきた日本の移民に対して、手続きが不備だとして、上陸を拒否しました。あえて日本政府との間に紛争を起こし、米国内で併合派への支持を集めようとの画策でした。日本政府は条約違反を抗議するために三たび、軍艦「浪速」を派遣して、損害を賠償し、今後はそのような不法行為を行わないようハワイ政府に要請しました。ハワイ政府は対日交渉を引き延ばして、「日本から迫り来る危険」の深刻さを世論に訴えました。
 1897年3月にマッキンリー大統領が就任すると、ハワイ共和国のハッチ駐米公使は、新国務長官ジョン・シャーマンに面会し、早期併合の希望を伝えました。その中でハッチは、ハワイの日本人が暴動を起こしたら、ハワイ政府ではアメリカ人の人命、財産の保護が困難かもしれないとして、「私には急速に日本人問題の危機が近づいているように思われる。どこかで断固とした処置が講じられないと、あの国(ハワイ)を日本にやってしまうことになる」と訴えました。
 一方、時の首相・伊藤博文はアメリカ外遊中に米紙のインタビューに答えて、「日本がハワイを併合しようとしているというのは、まったく根拠のないことだ。日本国民が望んでいるのは、公平な待遇であり、ハワイとの条約上の権利にしかるべき配慮がなされることである」と述べました。ロシアからの圧力が増大しつつあったこの時期に、アメリカと事を構える余裕は日本にはありませんでした。

■東洋文明と西洋文明の来るべき大闘争の前哨戦

 アメリカ国内でハワイ併合を強く支持していたのは、海軍戦略家アルフレッド・マハンを理論的支柱として、大海軍建設と植民地獲得による「海上権力」を求める一派でした。マハンの主張によれば、日本とハワイの間の移民紛争は目覚めつつある東洋文明と西洋文明の来るべき大闘争の前哨戦に過ぎず、真の争点は、太平洋の要を支配し優位を占めるのが野蛮なアジアか、それとも西洋文明国のアメリカかということでした。
 このマハンに時の海軍次官、次期大統領となるセオドア・ルーズベルトは次のような手紙を送っています。

我々はハワイ諸島を明日にでも併合すべきだ。
私の信念では、日本が英国に発注した戦艦2隻が英国を離れる前に、
我々はともかくもハワイのそこら中に星条旗を掲げ、細々とした問題はその後に片づければいい。
そしてニカラグア運河(のちのパナマ運河)を早急に建設し、
12隻の戦艦を作って半分は太平洋に配置すべきだ。
私は日本の脅威を現実のものとして感じている。

■海洋帝国アメリカの登場

 1898年1月、スペイン領だったキューバで独立戦争が激化すると、アメリカは在留米人を保護するためとして、戦艦「メイン」号を派遣したが、ハバナ港内で突如爆発・沈没する事件が起きました。米国内ではこれをスペインの謀略と決めつけ、「リメンバー・メイン」の声が巻きあがります。ルーズベルトはスペインとの開戦直後に、米艦隊をフィリピンに送り、スペイン艦隊を撃滅して、マニラ湾を占拠しました。
 スペインとの聖戦意識が高揚する中で、フィリピンでのアメリカ軍を支援するためにも、ハワイを併合して、補給基地・真珠湾を確保すべきだとの世論が急速に盛り上がり、7月7日議会でハワイ併合が議決されました。
 アメリカは、スペインからプエルトリコ、グアムを割譲させ、キューバを軍事占領して事実上の保護国としました。さらにフィリピン独立を目指す「革命軍を援助する」というふれこみでスペイン軍と戦わせ、勝利を得ると一方的にスペインと講和条約を結んでフィリピンを植民地としました。
 1901年、ルーズベルトは20世紀最初の大統領となります。そして米国に協力を拒むコロンビアからパナマ共和国を独立させて、運河の建設、使用権を得て、1914年に開通させました。これによって、20世紀初頭の米国はアメリカ東海岸からカリブ海、パナマ運河、ハワイ、グアム、フィリピンに至る一大海洋帝国として登場しました。あとは「日本の脅威」を除けば、太平洋はアメリカの内海となる。その戦略に沿って歴史の歯車は回っていくのです。

【ソース】不明(過去の保管資料)

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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 23:02
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