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パラオ 後編
パラオ



■戦後のパラオ

 日本の敗戦によりパラオは、1947年からアメリカの信託統治領となりました。アメリカ人は現地に想像以上の日本文化が根づいていることに驚き、日本的なものをすべて破壊しました。
 みんなで耕した畑は掘り返され、道路もはがされたそうです。南洋神社が取り壊されたのを悲しみ、日本神道にちなんだイシドウロウという名前を子供につけた人もいました。南洋神社は、毎朝村人が集まり、日本海軍岡田中将から「この美しいパラオを一日も早く自分たちの手で治めるようにせよと」と訓示を受けた思い出の場所だったのです。 後に南洋神社は現地人と清流会によって再建されています。
 信託統治というのは国連で定められた制度で、その国を独立へと導くために援助、指導するものなのですが、どうもアメリカは、軍事に於いて重要な位置にあるミクロネシアを出来るだけ長く統治下に置き、いずれはアメリカに併合しようと考えていたようです。60年代初頭に作られたソロモン・レポートには、いかにしてミクロネシアを併合するかについての綿密なプランが書かれています。
 アメリカ政府では「ソロモン・レポートは結局採用されなかった」と話していますが、どうでしょう。本当にこの国を独立させようとするならば、日本が築いた物と同等かそれ以上の産業・教育システムを整備しているはずです。
 ところがアメリカの政策は単純な財政援助ばかり。さらに注目すべきは、他の信託統治国が次々に独立をはじめると、ますます援助の額が増大している点です。ミクロネシアは援助づけとなり、アフリカ等に比べて大幅に独立が遅れました。
 発展性のない社会の中、金銭だけは援助されるという状況では、人々の勤労意欲も低下しがちです。日本時代の勤勉さ、治安の良さはあっという間に失われ、社会に違法ドラッグが忍び込んで来るのにもそれほど時間はかかりませんでした。
 パラオの長老方に「日本時代が一番良かった」と話す人が多いのには、こういった事も原因しているようです。
 また、現地人に実施した日本流の教育成果と、在留邦人が現地人を大切にしたことにもよりますが、それよりも強い印象を彼らに与えたことがあるからです。
 それはぺリリュ―島やアンガウル島を守るために、群がり来る米軍を相手に玉砕するまで戦った、その勇猛果敢な戦闘ぶりへの敬愛の念があるからです。その激戦のために、両島とも文字通り焦土と化し、彼らの建物も緑も生活も破壊されてしまったにもかかわらず、死を賭した日本軍への尊敬の気持は、今も去らないのです。
 ペリリュ−島には、昭和九年に「南興神社」が建立されていまいた。現地の人達は昭和十九年の玉砕戦で、神社が破壊されるまで、同神社を「ペリリュ-神社」と呼称して、島の安泰と繁栄を祈願して来ました。
 そして戦後、「ペリリュー神社」を再建し、戦死者一万名もあわせ合祀せよと要望してきたのは、同島尊長イサオ・シゲオ氏の母で(日本名)沖山豊美という老女でした。現在神社は再建されました。現地の人達の親日感情はこのように強いのです。
 アメリカの統治が終わったのは1994年。パラオはついに独立し、世界で最も新しい国家となりました。
 独立後「歴史を奪われたままでは真の独立国とは言えない」という声がパラオ国民の間にあがり、1997年、パラオ初の国定パラオ史教科書が作られました。 日本がこの国を立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、しばらくの間は、アメリカ人教師による目に余る反日教育が行われていたようです。
 歴史の授業ではアメリカで作られた教科書が使われ、ごく一部ながら、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された反日的歴史教科書もあったのです。ところがパラオの年長者が「そんな話はない」とにべもなく否定したため、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。



■日の丸を模した国旗

パラオ国旗

 1994年、パラオがアメリカから独立した際に、国民からの一般公募によって制定された国旗。青は南太平洋、黄色の丸は満月を表わしている。 日の丸のデザインが元になっているが、パラオ国旗の満月は中心ではない。これは、旗がなびいた時に中心に見えるようにと旗竿側に寄せてあるのだが、日本に失礼だからわざと中心をはずしたとの考え方もあり、パラオの人々の慎み深い心を表している。

■忘れられる精神

 村山内閣が誕生した1995年の10月1日、パラオでは独立1周年を祝う式典がくりひろげられた。各国の元首から祝電が届き、米国海兵隊のパレ−ドやチャ−タ−機で乗り付けた台湾の歓迎団、アジア諸国の民族ダンス等が式典場のアサヒグランドを埋めつくした。
(中略)
 この日各国の代表が振る色とりどりの国旗の中に日の丸の旗は無かった。そして全パラオ人が待ち望んだ日本政府からの祝電を読む声は遂に聞くことが出来なかった。私より何百倍もナカムラ大統領は悲しんだ。
 私に同伴して式典に出席した江尻真理子氏と私は金持ちになった日本人ではなくパラオのペリリュ−島の激戦で戦死した日本兵1万2千名の精霊を代表して日本政府の無礼を大統領に深く陳謝した。
 悲しみと、怒りに大統領の指がわずかに震えていた
(パラオ銀行の創設者、増田俊男氏のホームページ『増田俊男の時事直言』No.22の一節より)

■心をつなぐ橋

 パラオ本島とコロール島の間に約200メートルの橋が架かっています。これがKBブリッジです。実はこの橋は1996年に一度崩落しているのです。
 KBブリッジは、「Koror-Babeldaob Bridge」 の名前のとおり首都コロール島と空港のあるバベルドアブ島を繋ぐ橋で、島国パラオの交通の要衝として1977年に開通しました。
 建設するにあたり日本の鹿島建設も見積りを出したのですが、韓国の下請け会社が日本の半額で落札し、工事を行いました。ところがこれがひどい手抜き工事だったようです。コンクリートの固め方でさえでたらめだった。と言いますから恐ろしい限りです。その様子をつぶさに見ていた現地住民は当初からこの橋に不安を抱いていたようで、車で橋を渡るときは、もし海に落ちてもすぐ逃げられるようにと必ず窓を開けていたそうです。


KBブリッジ

 また、竣工直後から橋の中央部がたわみはじめ、15tだった通過制限重量がすぐに10tにまで減らされました。このたわみはやがて、通過する時おかしな揺れを体感できるほどに大きくなり、崩落事故の起きる頃には、徐行運転で渡るほかないという状態に陥っていたのです。

 そして1996年9月28日、悪夢は現実となります。KBブリッジは突如真っ二つに折れ海に突き刺さりました。


KBブリッジ

 たまたま通行車両の少ない時間帯だったのですが、1名死者も出てしまいました。
 橋の内部には電線、水道、電話線が通されていたため、パラオのライフラインは分断され首都機能は麻痺。一時は国家非常事態宣言も出されました。この時、パラオと姉妹都市の三重県からはコンテナ空輸で飲料水が運ばれています。
 パラオ政府は、すぐに橋を造った韓国の業者に賠償請求しようとしたのですが、この時すでにこの会社は解散していて、手がかりすらなかったそうです。これは一体どういうことなのでしょう?この建設会社は1994年にソウルで崩落した橋を施工した業者でもあったというのです。
 ともかく途方に暮れるばかりのパラオ政府だったのですが、日本ではまず仮設橋の建設を援助し、日本のODA政府開発援助により約30億円の新たな橋を無償で架ける事になりました。施工にあたったのは因縁の鹿島建設です。工事中、現地の人達は「カシマ」という言葉を覚え、日本人を見掛けると「ありがとうカジマ」と声をかける子供もいたそうです。

 実に5年の年月をかけ、橋は完成しました。2002年1月11日、開通式典が開かれ、橋の新しい正式名称が発表されました。
その名も「Japan−Palau friendship bridge」
 太平洋上を走るこの橋は、3000kmの距離を越えてパラオと日本に新たな時代の友情を結ぶ、「友好の橋」なのです。


Japan-Palau friendship bridge

【パラオ政府観光局】
http://www.palau.or.jp/

【NPO南洋交流協会】
http://www.nanyou.org/index.html


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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 18:39
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