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南京攻略戦
南京


■攻撃前夜(昭和12年11月20日〜12月10日)

 日本軍は昭和12年11月7日中支那方面軍(司令官 松井石根中将)を編成、その任務は「海軍と協力して敵の戦争意志を挫折せしめ戦局終結の動機を獲得する目的をもって上海付近の敵を掃滅」とされた。11月20日軍令によって設置された大本営は、11月24日前進統制線を解除し、無錫−湖州の線を新たな攻勢限界線と指示した。参謀次長多田中将は、戦面の拡大、南京攻略を強く反対したが、参謀本部内の強い実行論と、現地の第十軍の強い具申により遂に12月1日「海軍と協力し敵国首都南京を攻略すべし」と命令するに至った。なお直前の11月16日に国民政府は重慶に遷都を宣言していた。

 現地第十軍はこの大本営命令に先だって独断にて制限線を突破、南京攻略を準備しており、上海派遣軍と第10軍との進撃競争となった。南京攻略の日本軍は、上海派遣軍から第9師団、第16師団、第13師団、第十軍から第6師団、第114師団、第18師団の計6師団だった。
 12月4日 日本軍は唐生智を司令官にした「首都保衛軍」約10万による南京防衛外郭陣地を突破した。7日、蒋介石は宋美齢とともに廬山に去り、蒋介石離脱は市内の混乱を激化した。8日から最後の防衛線での支那軍の抵抗を排除しつつ南京城に迫った。
 市民の3/4はすでに退去していたが、日本軍が句容をこえて進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となった。これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っているものであった。
 中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
 村ぐるみ焼き払われたのである。

 中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられたが、これらの地区はそれ自体小さな市をなしているのである。
 中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。
 これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう。
 中国軍部は、南京市周辺全域の焼き払いを軍事上の必要からだ、といつも説明してきた。
 城壁周辺での決戦で日本軍が利用できそうなあらゆる障害物、あらゆる隠れ家、あらゆる施設を破壊することが必要だというのだ。
 この目的のために、建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり焼き払われた。

 中立国の観察者の信じるところでは、この焼き払いもまた、かなりの程度は中国人の“もったいぶったジェスチュア”であって、怒りと欲求不満のはけ口であった。
 それは、中国軍が失えば日本軍が使用するかもしれないものはすべて破壊したいという欲望の表れであり、極端な《焦土化》政策の表れであって、日本軍が占領する中国の各地方を、征服者には何の役に立たない焦土にしておこうというのであった。
 兵工廠や軍事施設の破壊が続けられ、試射をかねた発砲が絶え間なく続き、全市が焼き払われるとの流言が飛んで市民達の不安をあおった。
 掠奪が始まり暴徒が横行し、警察がその数人を銃殺すると逆に興奮し、暴徒が増え掠奪も激しくなった。

■南京攻略戦(昭和12年12月10日〜12月13日)

 支那軍は急迫する日本軍に、ベトン製トーチカ、掩蓋銃座、対戦車壕などを築き抵抗、日本軍は第16師団が紫金山、第9師団が光華門、第6師団が雨花台にせまり、12月10日南京城に総攻撃を開始した。
 12月10日、第36聯隊は工兵隊が城壁を爆破、破口を開くと伊藤善光少佐指揮の第一大隊が突入、日章旗を掲げた。「南京城一番乗り」である。しかし敵が猛烈に反撃、集中する砲銃弾の中に巻き込まれ、伊藤少佐は頭部に銃弾を受け戦死。少佐の「城門を死守せよ」の遺命をに従い第一大隊はその後3日間、城壁上に滞陣し続けた。
 これが南京陥落と勘違いされて内地に報道され、この夜東京では提灯行列が行われた。
 12日には催涙ガス攻撃まで受け、13日にようやく主力が占領した。
 この戦闘での聯隊の死傷は伊藤少佐以下、285名に達した。

 11日、第6師団と第114師団は中華門の手前、雨花台を攻めていた。
 守る支那兵の戦意は旺盛で、日本軍の前進は至難であった。
 雨花台のトーチカ陣地の多くは外から鉄鎖が巻かれ施錠されていた。
 また、何万人もの支那兵の排泄物で、陣内・陣外は糞便が溢れていた。敵弾を避けて伏せれば目の前に糞があり、ほふく前進は糞の海を泳ぐことになり全身糞まみれとなった。これは他の場所でも同様だったという。
 この日も南京城は堕ちず城壁にせまったのは第9師団だけであった。

 12月12日、城内には敗兵が流入し、逃避行に備え食料品店を襲い、車両などに放火していた。
 支那軍は最後の抵抗を見せていたが、午後、城内の支那兵も敗走を始め、唯一の脱出口である下関埠頭をめざした。
 彼らは途中、次々と武器を投げ捨て軍服を脱いで便衣に着替え、便衣をもたないものは市民の衣服をはぎとった(重大な戦時国際法違反。軍服を着ていない兵士はゲリラやスパイと見做され、その身柄は保証されない。つまり、直ちに自由に殺害できる)。
 路上には小銃や背嚢、機銃、火砲、荷馬車などが散乱し、その上に軍服が投げ上げられ惨憺たる有り様だった。
 唐生智は撤退を決定し、退却命令を出した。ところが命令が全軍に徹底する前に唐生智は対岸に逃げてしまい、指揮官に見捨てられた支那将兵はパニック状態で下関に殺到したり、あるいは安全区に逃げ込んだ。
 下関の手前には挹江門があり堅く閉ざされていた。敗兵たちはベルトやゲートル、服を引き裂いて綱を作り城壁外に降りたが、あせって墜落死する者もいた。しかも、ここには支那軍の督戦隊(自国の兵隊を射殺する監視部隊)がいて逃亡兵を銃撃した。
 たどりついた下関埠頭でも船を求める市民や将兵の修羅場だった。
 乗れなかった兵は船に発砲し、乗れたとしても定員オーバーで沈没し、群集におされ揚子江に転落する者もあった。



城門 挹江門

門を開ける作業をしているが、こちら側が城外である(銃眼がある)。城内から破られないよう、他の門と違って外側に土嚢が積んであった。ここに配置された第36師は逃げようと殺到してくる味方の支那兵を銃撃して、追い返そうとした。撃たれたり、押されて圧死したり、城壁から転落死したりで死体の山ができた。ニューヨーク・タイムズの記者ダーディンは支那兵の死体は高いところで6フィートにも達していた、と書いている。



 12月13日の夜が明けたときは支那軍の組織的な抵抗は終わっていた。
 この日の戦闘は、南京を脱出しようとする支那軍との衝突で始まった。南京を包囲していた日本軍は一斉に城内突入を開始し、掃蕩戦を実施した。
 ただし、どの部隊も前進には慎重を期した。すべての建物は敵陣であり、動くものは敵とみなす配慮が必要とされる。上海戦で懲りたのは便衣兵の襲撃だった(重ねて言うが、ゲリラは即処刑できる)。
 午後、城内を進む各部隊は次第に収容する捕虜の数を増やしていった。
 また機雷を除去した海軍第11戦隊が、江岸の支那軍陣地や脱出する支那兵の筏や舟を銃砲撃しながら下関をめざし、夕刻、中山埠頭に入港した。
 そして対岸の浦口にも国崎支隊が突入、陸海の南京封鎖が完了した。
 当初の作戦計画では、昭和13年1月中旬から攻略戦が開始される予定であり、予期した4週間も前に南京は陥落したのであった。
 首都南京を攻略するにあたっては並行して講和工作を進めるべきであったが、作戦が予想外に進展したため間に合わなかった。戦略と政略との強調を最も必要とした時機であったのにここで停戦に持ち込めなかった事は、後のトラウトマン工作不成立と併せて一大痛恨事であった。

■掃蕩戦(昭和12年12月13日〜12月14日)


 12月13日午後、城内を掃蕩する各部隊は次第に収容する捕虜を増やしていったのだが、その処置に困惑してしまった。
 日本軍は現地徴発を頼りに急進撃してきたが、支那側の焦土作戦により調達が難しく、将兵は空腹に耐えていた。そんな状態ではとても捕虜を養うどころではないのである。

 翌14日には幕府山が陥落した。ところが何と14,777人もの投降者が現れた。ただし支那軍の焦土作戦で家を焼かれ、行き場を無くした住民も含まれていた。第65聯隊第5中隊(120名)は兵士だけ約8,000人を収容した。
 この日も城内では緊張の中で掃蕩が続けられた。
 支那兵は便衣で戦い、時には老婆に変装して日本軍を襲ったり、実際に婦女子でさえ武器をとって向かってくることはどの部隊も経験していた(何度も言うが、ゲリラは即刻処刑できる)。したがって掃蕩は慎重に行われ、銃を担いだり背嚢を背負った形跡のあるものは連行した。

捕虜
捕虜になった支那軍正規兵
全員、便衣だが正規兵というキャプションがついている。武装解除したとはいえ、この大人数を警備する日本兵がフレーム内に一人しかいない。



■南京安全区国際委員会


 中立の安全区をつくり非戦闘員の退避場所とするため、南京残留の外国人が中心になり委員会が組織されていた。ドイツ人ラーベを委員長にして、南京戦の始まる前から日支両国に諒解を求めていた。南京市長は安全区の存在を認めたが、日本側は承認しなかった。
 なぜなら、安全区の内外に軍事施設が存在し、高級軍人の官舎も多く武器弾薬・無線機等があり、中立は保てないであろうと思われた。事実、安全区内の五台山には高射砲陣地があり、各所に塹壕も掘られていた。(ただし日本軍は安全区を攻撃しなかった)
 日本軍が城内に突入すると数千の支那兵が便衣に着替え武器を持ったまま安全区内に逃げ込んだ。雨花台を防衛した第88師の師長、孫元良(上海戦での第一発目は彼の88師から発せられた)は安全区に1ヶ月も潜んだあと脱出している。ラーベ自身も軍人を何人か匿っていた。
 しばしば攻撃、狙撃をうけながら日本軍は掃蕩を続けた。攻略にともなって実施される入城式までには市内の安全を確保しておかなければならない。当然、安全区も敗残兵狩りの対象となり最高法院から2,300人を剔出した。
 14日夜、入城した各部隊でそれぞれ戦没将兵の慰霊祭が行われた。

■南京占領(昭和12年12月15日〜12月22日)


 12月15日、第十軍は補助憲兵隊を組織した。日本軍は南京攻略のみを目的としたため憲兵がほとんど配属されていなかった。遷都してしまったとはいえ首都を占領したのである。掠奪、放火、強姦など非行の取り締まりのために憲兵が必要であった。
 日本兵による強姦事件はたしかにあったようだ。委員会の記述には15日「安全区内で多数の女性が強姦された」とある。中国側資料では、南京の殺人、暴行、掠奪、その他の残虐行為の犯人は全て日本兵であると主張している。
 しかし、退却、逃亡に際しての掠奪、暴行は支那軍の慣習である。
 この時の日本兵にとって夜の街は不案内の上、停電で真っ暗やみ、どこから狙撃されるかもわからず不気味でもあり、入城式に備えて兵器の手入れ、衣服の洗濯、城内の整理・清掃等忙しく、寒風の中を出かける猛者は少なかっただろう。多数の強姦があったとすれば、むしろ敗兵、難民の自暴自棄の仕業ではないのだろうか。
 この夜、約8,000人の捕虜をかかえた第65聯隊で火災が発生して、すぐさま半数が逃亡してしまった。

 12月16日、入城式の前日である。市中に散乱する支那兵の死体の片づけを安全区委員会に委託した。しかし40人の支那人しか動員できず、死体を露地の脇に積み上げたり、池に投棄しただけだった。
 この頃には、戦火が収まったと見た避難民や近隣の村民が城内に流入してきていた。

 12月17日、南京入城式が行われた。
 さてこの夜、第65聯隊は幕府山の4,000人の捕虜を夜陰にまぎれて開放することになっていた。処刑命令がでていたが逃げたことにして済ませようとしたのだ。18日午前零時すぎ、まず一陣の300人を船に乗せ漕ぎだしたところ、対岸の日本軍が発砲してきた。闇の中を近づく舟の群れを敗残兵の脱出とみて攻撃してきたのだ。すると待機していた残りの捕虜達が猛然と暴れだした。彼らは彼らで処刑のために連れてこられたと誤解したのである。捕虜達は日本兵に襲いかかり、7人が殺された。万一に備え配備してあった機銃が使われ銃殺になってしまった。それでも暗闇の中でのこと、明るくなってみると死体は1,000を越える程度で残りは逃げ去っていた。



南京入城式
1937年12月17日南京に入城する日本軍
入城式の時の中山門。
17日に入城式が行われた。右手前に並んでいるのは記者やカメラマンたちである。相当多数の報道陣が南京に入っていて、作家や評論家になった人も多いのだが、戦後になっても「南京大虐殺」について述べた人はいない。



 18日午後、故宮飛行場で陸海軍の合同慰霊祭が行われた。上海から南京まで日本軍の損害は戦死21,300余人、傷病者は約50,000人だった。

 南京占領の儀式は終了し、翌日から第十軍も上海派遣軍も南京を離れ始め、22日には警備担当の第16師団が駐留するだけとなった。

■平穏戻る南京


南京城の昨今
市民との触れ合い
昭和12(1937)年12月20日 南京住宅街にて撮影
「支那事変画報 第十一集(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)」と朝日新聞昭和12年12月30日より
撮影者、林カメラマン(朝日新聞)

 惨虐無道な支那兵に脅かされ、空と地に唸る砲弾に怯えていた避難民地区の支那良民は、日本軍入城と共にホッと蘇生の思い。
 その上に食事は元より子供にはお菓子を恵まれて大喜びの嬉しい涙で唯々「謝々」を繰り返している。





南京野戦病院の支那兵
野戦病院の支那兵
昭和12(1937)年12月20日撮影
「支那事変画報 第十一集(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)」より
林特派員撮影(朝日新聞記者)

 暴虐無頼な抗日支那軍ながら傷けば、皇軍が敵をも隔てぬ同仁の慈悲に抱かれ、ここ南京外交部跡の野戦病院に我が衛生隊の手厚い看護を受けつつ、明け暮れ悔恨と感謝の涙に咽(むせ)んでいる支那傷病兵。





通済門
通済門
昭和13(1938)年1月
撮影者 日本軍(写真)記録班

「中支之展望」昭和13年8月発刊より
南京が陥落した直後で、日本軍は残骸の様子を記録している。





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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 10:00
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