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南京事件
■蒋介石の北伐が引金に

 辛亥革命以来続いていた軍閥抗争は中国国民のナショナリズムを刺激し、1926年7月、蒋介石は国内統一のための北伐を開始しました。年内にほぼ揚子江南西部を勢力下に収め、翌年3月には流域最大の都市であり、列国の利権の集中している上海・南京に迫って来ていました。
 この北伐行動は、反軍閥・反英国を表面に打ち出し、英国とは多大なトラブルを生じつつの北上でしたが、日本を含む他の列強とはこの9ヵ月間それほど大きな衝突はありませんでした。
 昭和2年3月23日夕刻、北軍の敗残兵は南京城内になだれ込み退却を開始しました。支那敗残兵は退却の際、なりふり構わず掠奪・暴行に及び、自国民から兵匪などと忌み嫌われており、各国領事館はこれら敗残兵を警戒していたが意外にも外国人にはほとんど手出しをしなかったので、各国居留民の艦船への退避は無事に完了しました。
 23日夜、日本領事館警備のため荒木亀男(ひさお)大尉以下の陸戦隊12名は、領事館正面に機関銃を据えて警戒にあたりました。米英の領事館もそれぞれ10〜20名の警備兵を配していました。24日を迎え、森岡正平領事は危険は回避されたものと判断し、少数の警戒兵力という現状と協調外交の精神に鑑み、荒木大尉に要求して正門を開き、機関銃を廃して南軍(蒋介石軍)に対して敵意のないことを示しました。
 しかし3月24日朝、南軍所属兵(左派共産党系)が南京市内の日、英、米、仏領事館その他に避難していた外国人及び教会、商店等に対し思いもかけず残虐なる暴行と掠奪を始めました。これに対し、英・米両国は艦砲射撃の掩護下に陸戦隊を上陸させ、居留民の保護活動を実施しました。

■日本領事館に対する暴虐

 日本領事館に対する暴行・掠奪の状況については、在南京・森岡領判事から幣原外務大臣に対する詳細な報告電報等があります。それによると、24日午前7時頃より11時半頃にわたって南軍所属兵約150名が制服制帽で領事館に乱入し、領事以下館員家族及び南京市内から避難中の男女在留邦人100余名に向かって実弾を発射し銃剣を突きつけ、足の病気で臥床中の森岡領事は寝室に侵入され寝巻や夜具まではぎとられ、同室の根本博少佐(のち中将)は負傷、木村領事館警察署長は所持金を全部奪われた上に腕に銃撃を受け、後藤一等機関兵は死亡しました。領事館に避難していた残留日本婦人は「幾回となく忍ぶべからざる身体検査を受け、叫喚悲鳴聞くに忍ばず」(森岡領事)で、これには領事夫人も含まれていました。
 また軍隊と共に数百人の暴徒が乱入し、床板・便器・空瓶まで掠奪の限りを尽くしました。この間、木村警察署長は右腕に貫通銃創と左胸側に刺創を、駐在武官の根本中佐は左胸部に刺創、腰部に打撲傷を受けました。正午頃ようやく南軍の国民党代表、第六師団長、警備兵等が相次いで駆けつけ、これを制止し鎮静化しました。
 これら暴行・掠奪行動は他の諸外国に対しても行われ、イギリス領事館では総領事が負傷、医師と港務長が射殺されました。アメリカは金陵大学のウィリアムズ博士が死亡、ほか二名が負傷、フランス、イタリアも各1名の死亡者を出しました。略奪は徹底的に行われ、領事館だけでなく外国人住宅も被害は同様でした。その被害は死者7名(うち日本人は後藤海軍一等機関兵)を数えました。領事館には荒木海軍大尉以下兵員2名が領事館警戒のため到着していましたが、多勢に無勢、領事及び避難在留民からの絶対無抵抗の要請もあり、軍人でありながら「無抵抗」を通したのでした。事後、荒木大尉は責任を感じて自殺(未遂)を図り、海軍陸戦隊の行動の是非をめぐって大きな反響が起きました。

■その後の経過

 更に10日後の4月3日には、漢口の日本租界内における群衆の掠奪・暴行事件へと波及し、今回は海軍陸戦隊200名の出動によって排除したが、死亡者1名を含む22名の負傷者、破壊掠奪被害127件の事件が発生しました。幣原外務大臣は、中国国内の各種紛争に対する基本の方針としては、絶対不干渉、不偏不党の態度を持続し、現状に対しても可能な限りの忍耐、寛大の態度をとるとしており、この南京事件等に対しても、これら事件を南方革命政権左派共産党系の者が蒋介石の失脚を狙って、あらかじめ準備計画した組織的排外的暴行であるとし、国民運動の中心人物である蒋介石の失脚を防止するため、日本としては英米の主張する報復行動等を押さえ、蒋介石自らの事件処理を促進させ、速やかな事件解決を図るよう措置しました。
 残念ながら、これは支那人の気質を見誤った判断としか言えません。なぜならば、支那人とは、強きを助け弱者をくじく民族性を持っており、この後、徹底報復を行った米英とは逆に、支那の非戦闘員に対しての損害を極力抑えようとして無抵抗を貫いた日本に対し、排日・侮日がエスカレートしていきます。ここで強行路線を採っていれば、ここまでエスカレートすることはなかったと思われます。
 また更なる被害を局限するため「揚子江沿岸からの日本人の総引揚げ」を命じ、今まで築いて来た経済地盤を放棄させ、当面安全な上海及び日本に引揚げさせたのです。その数は在留邦人3136名中、2650名に上りました。
 これら事件の真相及び幣原外交の実態が逐次明らかになるに伴い、それまで幣原外交の「中国内政不干渉」政策の下、中国の軍閥抗争、蒋介石の北伐を静観していた日本国民は、不法な排外運動に対する幣原外務大臣の対応を「軟弱外交」と非難し一挙に反感世論が盛り上がりました。同じ閣僚である宇垣陸軍大臣もその日記の中で「・・・・カビのはえた不干渉主義−袖手傍観主義−行当りバッタリ主義−大勢順応主義−長物捲れ主義−刹那糊塗主義−引込思案主義−事勿れ主義・・・・」と批判しています。
 そして世論に便乗して野党政友会を中心とした倒閣運動も激しさを加え、枢密院本会議において伊東巳代治顧問は「・・・翻って我が対支外交を見よ。支那各地居留邦民の保護行届かず、為に居留民は財産を失い、婦人は陵辱に遭い、僅かに身を以て免れ長崎に来たりしも旅費無きため汽車の無賃乗車を嘆願する者数百人なりと云うに非ずや。また対支輸出途絶し、為に関西地方の当業者中閉店するもの続出しつつありと言うに非ずや・・・然るに現内閣は・・・数万の支那在留民の窮状を無視して顧みず、国民は之を如何に見るか・・・」とするどく非難しました。これが若槻内閣(幣原外交)の命取りとなります。
 そして幣原外交非難の追風に乗って誕生した田中義一内閣は、力を背景とした対中国積極外交(現地保護政策)を余儀なくさせられ、三度にわたる山東出兵を断行し、武力解決への歩を進める事になります。

■この事件の影にあるもの

 この事件は、日本人1名、英国人2名、米国人1名、イタリア人1名、フランス人1名、デンマーク人1名が死亡、二百人の中国軍兵士と女子供を含む数百人の一般人暴徒による各国領事館銃撃、暴行、略奪は床板、便器空瓶にまで至りました。
 この事件はコミンテルンの陰謀であることは国際的にも認知されています。
 北京のソ連領事館を捜索したところクレムリンからの「指令」文書が発見され、これにより、南京事件で領事までもが殺されそうになったイギリスは、ソ連と断交しました。
 この事件について中国刊行の「中国歴史」は「・・・英、米、日などの帝国主義は狂ったように南京城を砲撃し、中国軍民二千人余りを死傷させた・・・」と責任転嫁をしています。

南京事件




【ソース】不明(色々なサイトから集めた過去の保管資料より)


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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 20:20
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