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八田與一を偲び、日台150人が烏山頭に集う
烏山頭で昨日、八田與一を偲ぶ会が催され、ちょうど今年は八田與一技師の生誕120周年の年にも当たり、日本の親類や友人、家族ら約150人が参加し、盛大な会になった。

嘉南農田水利会が、特別に朝一番に「八田與一と台湾の水資源」という発表会を調整し、午後に追悼記念の会が行われ、八田與一の台湾の水利施設への貢献を追想した。

八田與一を偲ぶ記念の会は、終戦後毎年5月8日に行われ、遠く日本からわざわざいらっしゃる八田技師の遺族や親善団体が烏山頭ダムの八田與一の銅像と衣冠塚の前に集まり、八田技師を懐かしく想い、尊ぶさまを表現する。

「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」会長の中川外司によると、烏山頭ダムで追慕の会に参加するのは今年で22回目だという。

嘉南農田水利会の徐金錫は、「雲嘉南の5県市はもともと一面の荒野だったが、嘉南大圳と烏山頭ダムの完成後、便利な水利施設を持ち、雲嘉南を台湾の米蔵にさせた。製糖業でも繁栄を発展させ、台湾経済の繁栄に対し、かなり重要な建設であった。現在、烏山頭ダムは単に農業に貢献するだけではなく、市民の用水としても主要な水がめになっており、雲嘉南の市民の公衆衛生や健康にとって欠かすことのできない重要性を持っている」と述べた。

台南県長の蘇煥智も「烏山頭ダムは1930年に完成した後、東南アジアで最大のダム、世界でも第3位のダムになった。ここから八田技師の当時の気迫と意気込みがうかがえる。

ダム工事には慎重に重ねられた創意があり、世界でも使われていない、かつ僅かに存する工法が用いられている。

重要な文化的遺産に組み込めるよう、国連に提案し実現を目指したい」と述べた。

午後2時、八田の墓で追慕の会が開かれた。

八田晃生と家族、友人が八田の銅像に向かい、哀悼の意を表し、日本と台湾の貴賓が順に線香を焚き、花や果物を供え、心中で果てしなき追慕の気持ちを表した。

【ソース】自由電子報
http://www.libertytimes.com.tw/2006/new/may/9/today-south1.htm



■八田與一と嘉南大圳ダム

この嘉南大圳のダムは半水成式工法(セミ・ハイドロリックフィル)と呼ばれる工法で作られていて、八田氏自身が考案したものです。

そして昭和五年(一九三〇)、着工から十年、犠牲者も百三十人(内日本人四十一人)を数えましたが、東洋では前例の無い規模のダムが完成しました。

完成した時にはアメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、日本の技術力を十二分に示した事業でした。

このダムのお陰で、嘉南平原は台灣でも屈指の肥沃な土地に生まれ変わりました。

八田氏は一九四二年五月五日、フィリピンの綿作灌漑の視察の為、広島港から船に乗りましたが、アメリカの潜水艦によって乗船していた「大洋丸」が撃沈され、帰らぬ人となりました。

夫人の外代樹は、日本の敗戦が決まると烏山頭ダムの放水口に身投げし、自らの命を絶ちます。

その後、台灣に入って来た国民党により、樺山資紀、児玉源太郎、後藤新平らの銅像は壊され、日本人の墓は暴かれ、墓石や記念碑はを片っ端から壊したり、墓碑銘をセメントで塗りつぶしたりしました。

その代わりに四万三千体もの蒋介石の像が各地に建てられました。

しかし、八田與一の銅像は住民らの手により再建され、烏山頭の嘉南大圳の一角に今もたたずんでいます。

八田與一像


台灣の人なら誰でも知っている八田與一のこの話を、我々日本人が知らないのは悲しい事ではないでしょうか?


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author:玉置 麗華, category:[台灣]ニュース, 22:55
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