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【日本史】「戦争がなかったら、私は今でも陛下の臣下です」サイパン人の言葉
サイパンの人の言葉…「もし、太平洋戦争がなかったら、私は今でも陛下の臣下です」



サイパンや台湾などの南国では、天皇陛下に対してこんなことを言う人もいる。

  「太平洋戦争がなかったならば、私は今でもあなたの臣下です。」
 

2005年、天皇陛下がサイパンを訪れることを決めた時、例によって
サイパン在住の韓国人が反日・反天皇デモを行おうとしたことがあったのだが

 
その時も
「もし韓国人が天皇陛下に抗議するなら、我々は韓国企業をボイコットする」と
サイパン住民は“天皇陛下のために”戦ってくれていた。
(おかげで訪問は実現した。ちなみに天皇陛下は韓国人戦没者の慰霊も行った

ttp://wkorea.exblog.jp/1116956/
ttp://www.abc.net.au/ra/news/stories/s1400138.htm

 
 
 


同様に南国・パラオ共和国も台湾などと同様に親日傾向が強く、
今も「日本人と一緒に戦った」ではなく「日本人として戦った」と言うのだという。

こうして見てわかる通り『日本が統治した国々』から嫌われることなどないのだ。


唯一、中華思想とウリナラマンセーに毒された韓国を除いて

 
(この点に不自然を感じないのも韓国人だけである)

日本は第一次世界大戦後、国際連盟からパラオの委任統治を求められたため
たくさんの移民を送り、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残した。だが、
第二次世界大戦後にこの地域を占領したアメリカが日本文化の影響を徹底的に
破壊した。学校の校庭にあった二宮金次郎像も引きずり降ろされ、毎朝村人が
集まって日本海軍岡田中将から「この美しいパラオを一日も早く自分たちの
手で治めるようにせよと」と訓示を受けた思い出の場所『南洋神社』も壊された。

パラオ人は大いに悲しみ、子供に日本神道にちなんだイシドウロウ(石灯籠)
という名前をつける人もいたほどである。そしてアメリカ統治下でも勤勉の
精神を教えてくれた日本人を心の中で敬い、日本統治時代が最もよかった
懐かしみ、後に南洋神社を再建させている。

そのような国であるため、パラオは自ら「日本に併合して欲しい」と申し出た
という話も聞く。これは余談になるが、ハワイも独立した王国だった時代に、
日本の皇室にハワイの王女を嫁がせようとしたことがある。

1881年、ハワイのカラカウア王は当時から正式に国交のあった日本に自ら訪れ、
日本はアジアの盟主となって欧米の侵略からハワイを含む弱い立場の国を
守ってくれるよう明治天皇に申し入れた。しかし天皇陛下は当時のアメリカとの
国力差を考え、摩擦を慮ってそれを丁重にお断りした経緯がある。

韓国のように「希望通りの強国(日本)に併合されること」などどんなに願っても簡単には
叶わないことだというのに、希望通りに併合してもらった韓国だけ今になって
喚き散らしているのはおかしなことだ。

伊藤博文も朝鮮の併合には反対していたように、日本にとってのメリットも少ない。
当時の経済学者が朝鮮半島を調査したところ、借金だらけな上に
10世紀レベル(約1000年遅れ)の後進国だったので、
政府首脳部は腰を抜かしたという。

「そんな国家を併合して、どうするのだ?」と。

しかし日本はその怠慢で不潔で金にルーズな朝鮮を
「内戦でボロボロのアフガニスタンですら先進国にできるくらいの莫大な資金」 を投じて清潔で豊かな近代国家に作り直した。

韓国はその幸運により飛躍的な発展を遂げることができたのだが、それに対し
全く恩義や感謝を感じていない。それどころか何とか恩を歴史から消して
飛躍的な成長という「奇跡」を自分の手柄にしようと躍起になっている

これは宗主国が日本でなく欧米の国だったら怒り狂うような不遜な態度である。
欧米の圧政に苦しんだ植民地ですら「宗主国の統治が近代化に寄与したこと」は
当然の『事実』として認めているのだから。
 
 

一方パラオは恩義を忘れていなかった。

パラオは1994年にアメリカから独立した時、日本の国旗である日章旗を
モデルにした月章旗を作り、自国の国旗にした。日本の日の丸が太陽を
模しているのに対し、パラオはほぼ同じデザインの色違い(青地に黄丸)で
太平洋に浮かぶ月を象った。ただ、パラオの国旗の月は日本の太陽と違い、
中心から微妙にズレている。これは謙虚にも「同じでは日本に失礼だから」と、
わざと中心をはずしたのだという。
※「旗がなびいた際に満月が中央に見えるようにデザインした」との説もある。

パラオは日本の国旗を元に自国の国旗を作り、しかも日本の心も忘れない。
現地民に愛された日本統治と、受け継がれる礼儀正しい民族性が現われている。

ちなみにパラオの国定教科書では全462ページのうち36ページが
日本統治時代にあてられ、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルが
つけられている。どの統治国にも日本は教育に厳しかったが、それらの教えも
ルールも単純な賛美や糾弾ではなく客観的に事実が教えられている。

また、今でもパラオでは日常的にたくさんの日本語(たとえば「扇風機」
「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」など多数。日常的すぎて現地の
若者はそれが日本語であることを意識してないほど)が残っていたり、
「桜」の樹がない国にも関わらず、桜の花に抱く美しいイメージだけで歌を作り、
今も愛唱されていたりと、台湾よりもさらに日本を愛する傾向が強い。
日本の統治が終わった時にはパラオでも米国による反日教育が行われたが、
年長者に「そんな話はない」とあっさり否定され、浸透しなかった。

ちなみに一部の州では英語と日本語が併記されており、特にアンガウル州では
アウンガル語、英語に並び、日本語が公用語として使われている。
これは日本以外で日本語を公用語として使っている唯一の例である
また、パラオ人の『8割』はその姓名のどちらかに『日本式の名前』を
付けている
といわれている。


また、毎日新聞のコラムにこんなパラオの話が載ったことがある。




 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

 やがて戦況は日本に不利となり、
 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
 

 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 

 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が

 その瞬間、彼は悟ったという。

 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。
 


「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の
民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。

そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に
避難させたのである。

そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。

日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、
兵力14倍航空機200倍以上戦車100倍重火砲1000倍という
歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を
出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。

最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。

その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。

戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の
亡骸を泣きながら埋葬した
。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミと
ショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・に託して
作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。
 

後にペリリュー神社は青年神職南洋群島慰霊巡拝団やイサオ・シゲオ尊長ら
島民の手により「すべて日本から運搬した材料を使って」再建された。

この神社の前には戦中は敵だったアメリカ太平洋艦隊司令官
チェスター・W・ニミッツの言葉でこんなことが書かれている。
 


 「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
 あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
 此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を。」
 


ちなみにパラオに存在するこの神社は、
天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」を御祭神とする神社である。

パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニアは、敗戦から復興し
様々な分野において世界を牽引する力になっている今日の日本を称え、また、
戦時中のパラオ統治に今でも感謝し、パラオは世界で最も親日感情が高い国と言った。


そして当時を知るパラオの長老たちは今でも日本をこう呼ぶという。


           「内地」


と。

 




このように、日帛関係(パラオは漢字で「帛琉」)は一貫して良好である。
ただ、両国関係にとって残念な出来事もあった。

パラオ銀行の創設者、増田俊男氏がこんなエピソードを語っている。
 
 


「村山内閣が誕生した1995年の10月1日、パラオでは独立1周年
 祝う式典がくりひろげられた。
 各国の元首から祝電が届き、米国海兵隊のパレードやチャーター機で
 乗り付けた台湾の歓迎団、アジア諸国の民族ダンス等が式典場のアサヒ
 グランドを埋めつくした。
 一年前の独立達成の時、日本の国旗が空に輝く太陽であるのに因んで、
 パラオは大海原に浮かぶ月、紺碧の海に黄色の月を国旗にする事を決めた。
 この日各国の代表が振る色とりどりの国旗の中に日の丸の旗は無かった。

 そして全パラオ人が待ち望んだ日本政府からの祝電を読む声は遂に
 聞くことが出来なかった。

 私より何百倍もナカムラ大統領は悲しんだ。私に同伴して式典に出席した
 江尻真理子氏と私は金持ちになった日本人ではなくパラオのペリリュー島の 激戦で戦死した日本兵1万2千名の精霊を代表して日本政府の無礼を  大統領に深く陳謝した。
 悲しみと、怒りに大統領の指がわずかに震えていた。
 二宮尊徳と日本の心はマッカーサーに破壊されたままなのかと思った。」



パラオの独立一周年の式典に祝電すら打っていないのは社会党の
村山富市首相


つまり中国に媚を売り、「中国様に教えてもらったデタラメな歴史」を
勝手に肯定して、日本の誇りと金をドブに捨てたことで、売国奴の
代表格として知られる、あの村山首相である。

ちなみに小泉首相は去年の10月、『パラオ独立10周年記念日』に
ちゃんと祝電を贈っている。

村山以降も、最近では社民党の辻元清美(帰化朝、鮮、人、夫婦で赤軍派)などが
日本とパラオを離反すべく工作をしていたが、2005年7月6日に来日した
パラオのタミイ・レメンゲサウ大統領は、単に日本の常任理事国入りを支持
するだけでなく、国連改革案の共同提案国にまでなってくれた上に、
「最後まで日本を支持したい」と表明した。さらに靖国参拝にも
「すべての人のために祈るのは正しいこと」と支持を表明した。

つい先日、2005年7月10日には、同じく日本が統治したソロモン諸島の
ケマケザ首相は以下のように述べて靖国神社を参拝した。

日本とソロモン諸島の共通の文化は先祖に感謝すること。
 英霊が祭られている場所を拝見したい」
 (2005年7月12日 東京朝刊)
 

ちなみに靖国神社へ公式参拝をした国はインドネシア・スリランカ・タイ・
インド・ドイツ・スイス・フィンランド・ポーランド・ルーマニア・ロシア・
フランス・イタリア・リトアニア・スロベニア・エジプト・チリ・ブラジル・
イスラエル・トルコ・アメリカ・オーストラリア・アルゼンチン・トンガ・
スペイン・ペルー・ベトナム・カンボジア・シンガポール・台湾・パラオ等、
第二次大戦の『戦勝国も敗戦国も両方含んだ世界中の国々』

そして靖国神社参拝に因縁をつける国は『中国と南北朝鮮だけ』である。
 

どうして靖国参拝が軍国主義や平和に反することに繋がるだろうか。

これらを見ての通り、異常なのは中国や韓国である
併合とか植民地とか、そんな問題ではないのである。

やはりこれは「いかに正しい教育が大切か」を示しているといえるだろう。


そしてこれらは韓国や中国の「日本人は嫌われている」という主張が
真っ赤な嘘(中国・韓国の国益のための情報工作)であることをも示している。

つまり中国や韓国が大声で叫ぶ「アジアが日本を恨んでいる」とか
世界の人々が日本を嫌ってる」「日本は国際社会で孤立している」などという
決まり文句は、
『中国人、華僑中国人、朝鮮、人、在外朝鮮、人が反日活動をしてる』
というだけのことを「アジア・世界・国際社会」などに拡大解釈しているに
過ぎないのである。

先ほどのシンガポールの画像にある最後のコマの男性の言葉。

 『“戦争”は終わったんだ。次世代に持ち越すべきではない。』

これが中韓以外のアジアであり、「真に平和を愛する人々の言葉」なのである。


「平和を愛する、という嘘」をつき続け、
「“アジアの平和のため”に日本に歴史の反省と真摯な謝罪を促す」などと
都合のいい表現で国民を洗脳する韓国や中国には真似できない言葉といえよう。


 




ttp://gomushi.at.infoseek.co.jp/world/palau/003.html
ttp://www.tamanegiya.com/paraototujimoto.html
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/palau.htm
ttp://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h10/jiji_980401_22.html
ttp://photo.jijisama.org/YasukuniY.html
ttp://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yasukuni/nenpyo_2.htm
ttp://www.palau.or.jp/
ttp://www.palau-smile.com/
ttp://www.palau-smile.com/story.html
ttp://mikomo.hp.infoseek.co.jp/menu00.htm
ttp://toron.pepper.jp/jp/20cf/nisshinro/hawai.html

ASEAN諸国における対日世論調査(平成14年 外務省)
ttp://www.mofa.go.jp/mofaj/area/asean/yoron.html

 
 

 






http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea3.html

パラオの国旗

 

 


ポルコ


日本





enjoy korea
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfree&nid=359252
※ニミッツがミニッツになっていたので修正してあります


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【パラオ】「お母さん、産んでくれてありがとう。やっと会えたね」〜パラオ残留孤児、六十一年目の墓参り
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【パラオ】 (前編)
http://ameblo.jp/maokapostamt/entry-10014529268.html
【パラオ】(中編)
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【パラオ】(後編)
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【歴史】世界の王室社交順序
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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 23:00
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パラオ 中編
■米軍、ペリリュー島攻略へ

 戦争当時、日本軍はフィリピンを防衛するために、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していました。ペリリュー島は日本にとって、いわばフィリピン防衛の防波堤であったのです。ペリリュー攻防戦は、昭和十七年六月のミッドウェー海戦で日本が惨敗し、米軍の反攻が本格化し、昭和19年になると、米軍は対日包囲網を圧縮してきました。日本軍は昭和十八年から十九年にかけてガダルカナル島、アッツ島、トラック島と玉砕を続けていました。これらの戦闘のたびに、日本軍は兵員・艦船・航空機を失っていきました。そして日本本土直接攻撃の拠点となるサイパン、グアム、テニアンの各島が米軍の次の攻撃目標となるのは必至でした。米陸軍を指揮するマッカーサーにとって、フィリピンを攻略するためには、フィリピンの背後に位置するペリリュー島を奪取しなければ、戦況を有利に進めることはできませんでした。そこで、米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団(師団長、ウィリアム・H・リュパータス少佐)にペリリュー島の占領を命令しました。さらに、勇名を以って鳴るハウゼー大将が指揮する第三艦隊約八百隻の艦艇が、海兵隊支援のために差し向けられました。
 これに対するペリリュー島を守備する日本軍は、水戸の第十四師団の歩兵第二隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男大佐)一万二千人。満州(中国東北部)の関東軍指揮下から、ニューギニア、マリアナ、そしてパラオと転進してきました。しかし、装備・資材は「弾薬半会戦分、自動車用燃料一ヶ月分、食料六ヶ月分」にすぎませんでした。一会戦は通常三、四ヶ月の戦闘を予定しています。そしてその後の補給は、小銃弾一発すらなく、この時点でペリリュー守備隊の全滅が運命づけられていました。これまで太平洋の島々が攻撃された時、日本軍の持久期間は短く次々に玉砕しました。それは、「水際撃退」を至上の戦法にしてきたからでもあります。その戦訓をいかし、ペリリューでは、内部に深く洞窟を構築して待機していました。

■ペリリュー島攻防戦

オレンジビーチ

 すでに制海権・制空権を手にしている米軍は、狭い小島に文字通り絨毯爆撃と艦砲射撃を加え、九月十五日、航空母艦を含む機動部隊を背景に、上陸作戦を敢行してきました。総兵力四万二千。日の出を期して攻撃した米軍二個師団四万の兵は、ペリリューの西側に則したリーフの先より、上陸用舟艇や戦車を先頭に殺到してきました。だが緒戦では、日本軍の速射砲による対戦車攻撃で、大きな損害を受けた。米軍の交戦記録には「一インチ進むたびに一パーセント損害が増える」と書かれている。最初の損耗率は50%をゆうに超えていた。その中のひとつ、560人編成の小銃小隊の生き残りはわずかに74人にすぎなかったほどです。
 一度は退却を余儀なくされた米軍は、日本軍と正面から対峙する強行上陸を避け、守備隊の手薄な側面に迂回する作戦をとりました。
 逆に日本軍は、上陸を阻止してからは、予定通り五百の洞窟にこもって、持久戦に移りました。連日連夜、彼我肉迫する戦闘が続きました。
 しかし米軍が橋頭堡の確保に成功し、その後の日本軍の損害は、一挙に拡大していきます。日本軍はいたづらに斬りこみ攻撃を繰り返し、そのつど大量の死体の山を築いていきました。
 しかし日本軍は七十三日間を持ちこたえ、健在者は僅か五十数名に減ってしまいました。そして十一月二十二日、中川隊長は、パラオ地区集団参謀長多田督知大佐宛、訣別の電報を打ちました。二十四日、いよいよ全軍玉砕の時が迫りました。中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた村井権治朗小将、飯田善栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って割腹自決。三人のあっぱれな最期に続けと、最後の決死隊が組織されました。根本甲子郎田大尉以下、傷だらけの五十五名は、夜鬼のごとくになって突撃してゆきました。米海隊公刊戦史によれば、「日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、二十四日の夜から二十七日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕した」とあります。
 そして、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、二十四日の十六時でした。この六文字の電文は、ペリリュー守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを意味するのです。
 米軍は占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。それは、アメリカ兵の血で美しい珊瑚の海がオレンジ色に染まったからです。現在「オレンジ・ビーチ」はペリリュー島の正式名になっています。
 ニミッツ提督はその著「太平洋海戦史」の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。
 「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米軍の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権・制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である


■根付いていた忠と孝の精神(nakataさん提供)

 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。「あそこでみんな死んでいったんだ……」沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
 やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。それを聞くなり隊長は激高し叫んだという「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
 その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。


■ペリリュー神社

 ペリリュー島は、現地住民の住んでいる島です。島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験しているいて、大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をコロール島に退避させました。
 この誠意が通じたのか、戦いが終わって帰島した彼らは、日本人の遺体を見て泣いたそうです。島民はこぞって日本軍の遺体を葬り、墓地の清掃に心掛けました。
 現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」が建っています。それを中心に、日本の各団体によって三十数基の慰霊碑が肩を寄せあるように建立されました。
 ペリリューには、昭和九年に「南興神社」が建立されていました。現地人たちは昭和十九年の玉砕戦で神社が破壊されるまで、同神社を「ペリリュー神社」と呼称して、島の安泰と繁栄を祈願してきました。
 そして昭和五十七年には、「青年南洋群島慰霊巡拝団」二十名が、船坂弘氏の助力を得て、ペリリュー神社を再建しました。すべて日本から運搬した材料を使い、島民の協力を得て、十日間費やして完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。

■一年半の孤独な戦い

 「山口少尉、聞こえるか。私は日本からお前たちを迎えに来た。日本は戦争に負けたのだ。山口少尉、出てきなさい」
 昭和二十二年三月下旬、パラオ諸島ペリリュー島の中央部、生い茂るジャングルの中に、連日、日本語が響き渡りました。日本軍が「大山」と名づけたこの一帯に、武装した100人近い「元」日本軍がひそんでいて、時折、米軍と小規模な銃撃戦を交えているとの情報をもとに、米軍が行った救出作戦の一幕でした。声の主は澄川道男・元海軍小将(50)です。
 この呼びかけを、深い洞窟の中でじっと耳をそばだてて聞いている集団がありました。当の山口永少尉ら約30人ですが、彼らは疑心暗鬼でした。
 「最初は敵の謀略だ、と思いました。ところが澄川小将が、自分たちの家族から来た手紙を次々と読みあげるんです。そのうえ、自分たちの故郷の話を詳しくする。そのうちに本当かもしれないと心中で思い始めました。もはやこれまでという気持でした。」 数少ない同島の生き残りの将校である山口永氏が、こう、劇的な一瞬を振り返ります。
 丸腰で洞窟に入ってきた小将は、もう2年も前に戦争は終わっている。日本は今、再建に向けてみんながんばっているんだ。これ以上おまえたちが戦争を続けていては国のためにならんのだ、とおっしゃるんです。それで私たち34人も投降することになりました」
 まったく情報から隔離されていた山口氏たちにとって、日本の敗戦は到底信じられない出来事でした。
 「その間、たしかに、いろいろ変化がありました。米軍の包囲がとかれましたから、司令部の玉砕は知っていました。けれど、日本が負けるはずはない。細々と闘いつづけていると信じていました。しかし、おかしいこともあったんです。基地のまわりで時折見かけるアメリカの雑誌に、皇族や東京の写真が載っているし、避難して女性など1人もいないはずの島に、女の人が戻ってきたんです。米兵にいたっては奥さんを呼び始めた。それでもまだ、謀略の可能性があると思っていたんです」(山口氏)
 なぜ、山口氏らは生き残ったのでしょうか。山口氏は、米軍のペリリュー上陸を最前線で迎え撃つ部隊に所属していました。昭和十九年九月十五日の日の出を期して攻撃した米軍二個師団四万の兵は、上陸用舟艇や戦車を先頭に殺到してきました。だが緒戦では、日本軍の速射砲による大戦車攻撃で、大きな損害を受けました。一度は撤退を余儀なくされた米軍は、日本軍と正面から対峙する強行上陸を避け、守備軍の手薄な側面に迂回する戦術をとります。そのため、本来ならば最初に玉砕するはずだった山口氏ら最前線の兵に、生存者が多かったのです。



後編へ続く


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author:玉置 麗華, category:[国内]日本史, 18:09
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